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ポストからの吉報

「観逃した!」
気づいた時には、もう遅い。市内の中心地にある映画館でしばらく上映中だった作品がある。

『オオカミの家』

ネットなどの評判では、「グロテスク」とか「意味がよく分からない」とかなかなかに厳し目の感想が散見された。私ごとだが、気持ちが悪い、あるいは怖い映画はまったく不向き。あらゆる作品を鑑賞したいという気持ちがあっても、それだけは、どうも駄目。鑑賞リストから外していた。
しかしある時、鳥取にあるジグシアターのインスタを眺めていると、この作品のことを丁寧に紹介してあった。なぜだか、観ておかないと後悔するような気持ちが、沸々と湧き上がってきた。加えて、日田のリベルテのHPにも「話題作、いよいよ日田上陸!」と書かれているではないか。
怖いけど、行ってみよう!
思い立ったが吉日。一念発起した私は、11月18日に日田リベルテで鑑賞することを決めた。すると、予定日が近づいてくるに従って、急な寒波が押し寄せてきた。しかも、18日ごろは全国的に雨風が激しくなるという予報。前々日になって、予定を変更することになった。まずは『オオカミの家』HPから上映館を検索。すると。見慣れない名前の映画館を見つけた。

「漁港口の映画館 シネマポスト」

何これ?何?私の頭が一瞬停止。それから再度動き始めるまでに3秒(ぐらい)。
時間は20時30分ごろだったが、即座にその映画館に電話。すると優しい語り口の男性の方が対応してくださり、19日16時30分で予約を取ることができた。
もともとご家族が運営していた郵便局をリノベーションし、映画館として生まれ変わらせた。端的にいうとそのようなことになるのだが、実際はそんなに容易いことではないようだ。

19日当日、相当ワクワクしていたのか、目覚まし時計がなる10秒前にふと目が覚めた。そしてアラームを止めた。映画作品を早く観たいという願望よりも、明らかに下関に新しく誕生したこの映画館に対する期待感によるものだった。何かに引っ張られるかのように、気持ちがとても前向きになっている。
この感覚は、昨年2022年12月上旬に計画実行した4泊5日の映画旅行の時に酷似。先述の鳥取にあるジグシアターにて『現代アートハウス入門Vol3』を鑑賞するためだった。この『現代アートハウス入門』はコロナ禍で始まった映画イベントで、2回目までは全国各地の映画館で開催されていたが、3回目だけは全国5か所でしか開催されなかった。私が住む地域では上映館がなく、居住地からは大阪か鳥取が一番近い場所。それでも、私は以前からというか、映画館を作り上げている過程から、インスタでずっと追いかけていたので、ぜひ一度はジグシアターを訪れたいと常々思っていた。
「今回がチャンスかもしれない」
思い立ったが吉日。一念発起をした私は・・・と、今回と同じように流れに乗っていったのだ。ジグシアターでの思い出の4泊5日は、現在のところCINEMA  JOURNEYで写真のみ公開。映画館とは、何か?という究極の問いについて一つの答えを見出すこともできた鳥取ジグシアター編は、また改めてまとめたいと思う。

閑話休題。JR博多駅へ。ホームにたどり着いた時にちょうど乗車する特急電車がやってくる運のよさに、ガッツポーズ。軽やかに自由席に着席。小倉駅に到着すると、下関行きの普通電車に乗り換えるために下車。ついでに、名物の立ち食いかしわうどんと稲荷一個で腹ごしらえ。食後、しばらくして下関行きの電車がやってきて乗車。この電車は、小倉駅と下関駅を日々何往復もしているようだった。途中、海底の下を潜り抜け、下関に無事到着。

まずは、ヴィンテージ雑貨店とパンカフェに向かう。以前、テレビ番組のリサーチに15年間ほど携わっていたので、出かけ先の下調べには余念がない。「折角だから」が口癖になってしまい、行きそびれたと後悔をしたくない性格。とはいえ、そんな情報をそっちのけで、その土地に降り立った時の感触というか感度で、概ね行先ややりたいことが決まっていく。
さて、その2つのお店は同じビルに存在している。3階建てのビルの1階がパンカフェで、2階がヴィンテージ雑貨店となっている。実は、その3階に3年ほど不定期上映をしていたシネマスペースがあったそう。それこそが、今回訪れるシネマポストの前身である。
パンカフェに着いた時には、まだ開店前だったため、そのまま2階にある雑貨店へ。CIPOLLA。ユーズドの雑貨が所狭しというよりも、さりげなくおしゃれに点在していた。メガネをかけたニット帽がお似合いの店主の中村さん(通称Tsuguさん)は、適当に置いているだけというが、光と影の具合を絶妙に計算してある。あまりにも気になって、世間話や映画談義をしている間もずっと写真を撮り続けていた私。どうぞお許しください。
このTsuguさん、映画や芸術にとても造詣が深い方で、シネマポストの支配人の方と共に下関のまちに映画館を育んできた方のよう。Tsuguさんが話すことには、新しい発見の種がいっぱい。例えば、ジム・ジャームッシュ監督の仕事と役割の話。自分が何者であるかを答えるとき、多くの人は経済的な活動における自身の肩書きを述べるだろう。私であれば、英語通訳者といったこと。しかし、自分の役割というのは必ずしも、金銭的ないわゆる収入によることだけではない。まだ駆け出しの歌手を目指す若者がいたとしよう。バイトで生計を立てていたとしても、自分のことを「歌手です」と言えるか言えないかでその顛末は大きく変わってくる。自身の人生における役割として「歌手」であることを胸張って言い続けると、その方向にしっかり進むことができ、思いを形にできるだろう。
このジム・ジャームッシュ監督の話を聞いて、ハッとした私。常々、「易経から観た映画、映画から観た易経」を伝える仕事がしたいという目標を、ぼんやりとは思い浮かべるも、なかなか具現化できていなかったのだ。「仕事は何ですか」という問いかけに「英語通訳者です」と答えるだけで、映画や易経といった言葉は出てこない。これではいけない。確かに通訳者として今後も活動はするが、役割はそこではない。
自身の体験からたどり着いた思想や思索を、映画や易経を通して伝え、そして受け手の内面に変化を促す役割。それを映画エッセイストと、私は定義した。
私の中の内面が、一気に晴々としていくのがわかる。すっきりとした快晴、そんな心模様に変化した。
Tsuguさんとの出会いは千載一遇。その出会いの糸口は、新しくできた映画館シネマポスト。その存在感が訪れる前から、ますます大きくなっていった。
ちょうど下のパンカフェが開店時刻を回ったのを見計らって、Tsuguさんのお店をお暇した。Tsuguさん曰く、どうも下のパンカフェのオーナーさん、漢字は違えど、私と同じ苗字という奇遇。やっぱり今回の下関映画小旅行には何かある。元々ウニの瓶詰め工場だったその店内。シネマポストに行きたいと逸る気持ちを落ち着かせるように、たまごサンドに淹れたての深煎りコーヒーを堪能した。名物のドーナツとまるパンも購入して、結局そそくさと映画館へ向かった。

パンカフェ、雑貨店、シネマポストの写真エッセイを下記にまとめている。
よろしければご覧ください。

映画館は、カフェと雑貨店のあるビルから徒歩で15分ぐらいのところにあった。シネマポストという名前だけあって、建物の外観には昔の郵便局の風合いが残る。お目当ての『オオカミの家』のポスターも掲示されていた。
おそるおそる扉を開くと、そこにはスーツ姿の男性とジャンパーをきた男性が立っていた。おそらくはスーツ姿の男性が支配人の方だろうと予測がついた。予約した者であることを伝えると、やはり先日お電話で対応をしてくださった方で、支配人だった。その後で副支配人という若い男性が客席の片付けを終えて出てきた。
かつて郵便局の窓口カウンターや仕切りだったものを、このような映画館に大変身させてしまうその独創性に、とても魅力を感じた。座席のある劇場内は、元々は職員の机などがあったところのようだった。座席数は22席。自分だけの映画空間を味わえる。一番乗りの私は自由に席を選べたので、スタッフの方に尋ねて一番人気の席を陣取った。
その回の上映には5名。近所の映画好きの人たちのようだった。上映が始まる前に副支配人から「上映終了後、支配人より映画の短い解説があります」と。解説?あまりに突然のことで何のことか分からないまま、映画上映となった。

上映終了後、入り口からそっと入ってきてスクリーンの前にすくっと立った支配人。電話での語り口とはまた一味違う、映画の専門家として軽妙な解説が始まった。内容もさることながら、観客の心を鷲掴みにするその伝える表現は、私を強く刺激した。まるで、淀川長治氏や水野晴郎氏が語るような映画愛に溢れるひとときに違いなかった。

こんな映画館、来たことない。

『オオカミの家』は5年の歳月をかけて製作されたストップモーション映画。この映画の監督レオンとコシーニャは、映画『ミッドサマー』のアリ・アスター監督に見出される。世界的に注目を集める2人だが、今後更なる活躍が期待される、とのこと。

私は、この映画を観終わって率直に感じたことがある。
他人の意見や評価で惑わされない、右往左往しない。自分で観る。
このことに尽きると思う。冒頭でも書いたが、私はグロテスクなものとか怖いものは好みではない。この映像作品で表されている、おそらくグロテスクと感じるところは、まさに私たちが日ごろ観ることができない「変化の過程」。監督の2人は長い年月をかけて見事に表現してきたのだ。例えば、蝶を想像してほしい。蝶は、卵からイモムシ、サナギそして蝶へと変化する。この大まかな変化の途中で、それぞれの段階で複雑に変化を遂げている。特にサナギの内部では、イモムシであった形態が一旦「破壊」され、そして新たに美しい蝶に「再生」される。その変化の過程は、私たちの目では見えない。この映画では、その見えない大切な変化の部分をしっかりと見せつけてきているのだ。観る側の洞察する力が試されていると表現してもいい。
映画の中で次から次へと巻き起こる変化の波に乗ることは、まるで激動の現代社会の変化に対応することのようにも思える。それは、個々人の内面の土台に左右されるところだが、どちらの場合も「見る目」ではなく「観る目」で向き合うことが必要だろう。
『オオカミの家』に込めらた監督2人の表現の感性にただただ圧倒され、そして今までに体験したことのない後説を聞いた後の余韻。私の中にある蒙がまた一枚剥がれ落ちて行くようだった。福沢諭吉も書き残しているが、開発教育とは、外から付け加えるものではない。内側から蒙を剥ぐように磨かれて行くことだと。これは易経の山水蒙にもある内容。この卦は教育の卦とも呼ばれているが、教育とは、内側から自発的に起きるものである。指導者はその蒙を剥ぐきっかけを与えるに過ぎない。この映画の本質を思索すればするほどに、その魅力が増幅する。

この10月に開館したシネマポストで『オオカミの家』を鑑賞できたことを心底うれしく思う。知性をくすぐってくれるこんな稀有なミニシアターが下関にあること以外は。(ただただ、うらやましい)

気になった方は、シネマポストのHPをご覧ください。
新たな映画体験をどうぞ。


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