描き続けること
音楽を入口にアートの鼻★塩★塩ミ⭐︎(話をしよう)
『これどう?』
『ねー見て作ったのー!』
『これカッコよくね?』
と無邪気に聞くこともあれば聞いてもらうこともある。
そして返答、
『〇〇に似てるね!』
と悪気なく言ってしまうことも言われてしまうことも。
似てる!?やったあ!となる場合もあるが、自分はそのように言われて寂しい思いをしたことばかり。
もちろん似せることもあるが、作りたい景色や形がありそれを音楽で示した時の返答が先に記した様であると寂しくはないかい。
それで描きたいものがあるのに億劫になってしまったらどうするんだこのおおおおおおお(すいませんまず実績を出せよってなつばさ)
・・・コホン
ここで露呈する問題が、作るという作業において
”似せてつくる作業”か
”描きたいものをとある形でつくる作業”の2つだ。
最近の自分はどちらも求められて(関係者みなさまありがとうございます精進します)少しずつ心も見える景色も広がってきたところだが”描きたいものをとある形でつくる作業”をやるときに喉に骨が刺さった様な気持ちになる。
吹奏楽でトランペットを吹いて、ピアノを弾いてコードを覚えてきた頃(高校生)ピアノ曲を好きに作っていた。どれも似た曲だったし今弾いてもゴチャゴチャに何曲も混ざってしまうさま。だが作るのが楽しかったのだ。
フュージョンやR&Bを聴いて育っていたのでシンセのメロやインストに全くといっていいほど抵抗も違和感もなかったしどの音楽も平等に親しんでいたのだと思う。
やがてDTMに触れてインスト曲やABCメロのJポップ進行で作った曲たちを人に聞かせることになったとき。
やはり、、、、そうだった。
この時高校三年生だったが聞いてもらうことにとても抵抗を持った。
音楽を作る、学ぶ場所にいればいるほど、コードやメロへの指摘はでてくる。学び舎としては正解があるからこそ形式的に教えることができるから当然だ。
自伝の様になってきてしまったこれでは読んでくださる方も『だからなんだよ??』となってしまいそうだがもう少し!(お願いしまs)
高校生の時に初めてスタジオに入って遊んだ時から、作る=”似せてつくる作業”であるとこの四年間で変わってきてしまったのかもしれない。自分の作品を高めるためにはいずれ周囲の反応や学びを得ていかなければならない。
”描きたいものをとある形でつくる作業”を考えた時に有効で美しいとされる進行をすぐに教科書から引っ張ってきてしまう癖は今の自分にとってはよくないことだと思う。もっと音楽ではないところから知らなければいけないことがたくさんある。
アートを描き続けることはアーティストにとっては子孫繁栄だ。
何もないキャンパスに脳内の景色を描いて音にしていくことの楽しさを思い出そう。自分に音感がなかったら絵描きになっている。絵でないのなら折り紙を折るだろう。
たまたま音だっただけだ。
といっているつばさは何もかも0に等しいだろうがこれは描きたかった文章だ(涙)
多くの人が共感し、各々の意志思想に気づけたらなと願う。それが今の自分にとっての子孫繁栄だからだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?