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どうにも写真写りが悪い

だから写真が嫌い。

今日はちょっとネガティブなおはなし。

小学校くらいから写真が嫌いだった。5歳頃までの写真はアルバムを組み切れない程あるのに、以降はパタリと減る。それは当時の自分の抗いだった。

専業主婦家庭のひとりっ子。親にとっては唯一の子ども。当然のように親にとっての子どもの思い出は、全て私に関すること。成功も失敗も、子どもにとっては忘れて欲しいような出来事も。

それは一種の幸せではあったのだろう。親に気を配ってもらった、よく目を掛けてもらえた。それ自体には感謝もしている。幼い当時に親と向き合えたから、今の私がある。

でもね。その誤魔化しの利かなさ、言い訳のできない状況が負担だった。

例えば、ナポリタンを食べながら寝てしまったこと、
例えば、転んで顔に大きな瘡蓋を作ったこと、
例えば、設定がめちゃくちゃなごっこ遊びをしたこと。

その全てに写真があり、ことあるごとに話題に挙がる。それは家庭内でも友人に対しても。たぶん、親にとっては「かわいい」を共有したかったのかな。母にとってみれば、家庭が中心で24時間見ていた私以外の話題も少なかったとも思う。

常に見られて、写真を撮られ、話題にされる。

それを愛と言うのは簡単だけれど、母の話の合わせて失敗の記憶を何度も復習した私の心には、たくさんの傷が残っている。失敗したら笑われる。揶揄われる。写真が残れば残るほど、復習の回数が増える。写真は私にそして母に、忘れることを許さなかった。

残さない、記録させない。そのためには写真を撮られなければいい。当時は言語化ができていなかったけれど、そんな発想に至った。

はじめは、写真写りが悪いということもなかった。でも、【撮られること=話題にされること】という思いから、動作が強張る。その、ぎこちなさが写りを悪くしていた。しまいには、写真撮影から逃げるに至った(ちなみに成人式の前撮りさえしていない重症ぶりだ)。

そんな私だが、昨年に一眼レフを買った。イラスト・アート・動画編集と趣味を進めてきて、次の表現として写真に興味を持った。これは、自らの固定観念と戦うための抗いでもある。撮られることは、忘れる権利を放棄すること。そう思う私の撮影した写真を、誰かの将来に設置するトラップにしない。誤魔化しの利かない現実を写し取る写真だからこそ、他の表現と比較して表現者(=撮影者)の責任は大きい、と感じる。

いつか笑顔で自然体で、撮影後の評価を気にせず、写真を取り合う。撮影という動作そのものを楽しめるようになれたら。そんな未来を目指してシャッターを押す。

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