允子さんのこと/リメンバー・じょにー・カド
今回も、当初思っていたのと違うことを書く。
数日前、広島からはがきが届いた。差出人は見知らぬ男性の方。
「叔母 大野允子儀 92歳にて永眠致しました」とあった。
息をのんだ。ちょっとだみ声の、あの言葉が弾むような毒舌をもう聴くことはないのか。
哀しみがどっとこみ上げてきた。
大野允子(みつこ)さんは児童文学作家である。
私が初めて出会ったのは、記者だった14年前のちょうど今ごろ、大野さんのご自宅に電話をかけたことだった。
原爆に遭った人たちの体験の聞き書きをする企画記事のため、取材に応じてくれる人を探していた。図書館で見つけた大野さんの著書を読んで、「この人に」と思ったのだ。
長電話の末、大野さんには取材を断られた。詳しいやりとりは忘れてしまったが、「原爆のことを軽々しく語れない」といった趣旨のことを言われた覚えがある。
当時の私は、週1回掲載の企画を「埋める」ことだけを考えていた。そんな足元を見抜かれたようだった。
その後、大野さんとはことあるごとにお茶をするようになった。
大野さんに断られた後に私が取材した女性がたまたま大野さんの後輩だった。その記事が目に止まったらしい。
「あの記事は良かったわね。あなた、私に断られてよかったでしょ」と大野さんに何度か冷やかされたものだ。
こういう物言いからもわかると思うが、大野さんはちょっと素直じゃない人で、しかしそのいちいち毒々しい言い方になんともいえない魅力があった。
そんな大野さんが終生伝えようともがいたのは、原爆の理不尽さだった。
1945年8月6日、米国が投下した原爆で広島は焼け野原になった。大野さんが通う高等女学校の生徒のうち、入学して間もない1年生のほとんどが市内中心地にいて命を奪われた。たまたま郊外へ作業に行かされていた大野さんらは無事だった。
運命を分けたのはもちろん自身のせいではない。
にもかかわらず、「なぜ私は生き延びたのか」と苦しむ人たちを、私はたくさん見てきた。
大野さんもその一人だ。女学校の後輩の遺族らを訪ね歩き、見つけ出した当時の9冊の日記をもとにした「八月の少女たち ヒロシマ・1945」は反響を呼び、アニメ映画やテレビドキュメンタリー番組にもなった。
「子どもたちに向けて、死ぬまでに書きたいものがある」という言葉を大野さんから何度か聞いた。ただ、出版社がどこも乗り気ではなく、出版が難しい、とも。
詳しい内容は聞きそびれた。
その新作を読むことはもはや、永遠に叶わない。
「見えないものは消えてなくなってわすれられて、なかったことになってしまうのは怖いことです」。本人から頂いた「ヒロシマ、遺された九冊の日記帳」(ポプラ社、2005年)が我が家にある。あとがきで大野さんはこう書いている。
私はもちろん戦争を知らないし、原爆のこともわかっているなんてとてもいえない。
ただ、私は大野允子さんのことは確かに知っている。
彼女が私にくれた言葉の一端を、このnoteにしっかり刻ませてほしい。
最大限の感謝を込めて。
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