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物を捉える

劣等感のうまれる場所

"幸せを得られるかどうかは、思考の質に左右される。それゆえ、適宜注意を払い、悪辣で無分別な考えにおぼれる事がないようにしなければならない"
これは、ストア派のマルクス·アウレリウスの言葉だ。

この場合の、悪辣で無分別とは何か、を、よく考える。言葉ひとつをとっても、それは受け取り手によるものなので、正解もなければ不正解もない。そうして、答えのない事を求めるのが哲学であるが、善良に考えると、この場合の悪辣で無分別とは、自分の中にある(何かしらの足りなさ)に目を向ける事ではないか、と私は思っている。

足りないものとして認知してしまう場合、何かとの比較が必要になる。誰かと比べて自分はここが足りていないと認識し、どこかで間違って、だから自分はダメなのだ、と勝手に結論づけてしまう。それを劣等感と呼ぶのだと思っている。

では誰かに認められた場合だが、それが仮に自分が、『相手は自分よりも下である』と考えている時、その相手に褒められた(認められた)として、それはとても喜ばしく感じられるのだろうか?いろんな方の話を傾聴したが、そうではないように感じる。劣等感を抱きやすい人は基本的に自分の中にある【自分自身の理想像】しか見ていないので、自分が崇拝する誰かに認められてなんぼだ!と思っている。そうした人の側面には、その、自分から見て下だ、と思っている人に褒められても、出てくる言葉は"だからお前はそうなんだよ"である。自分が認めていない相手に褒められたところで全く喜ばないどころか、どこかで、褒めてくれる相手を自分の先入観のみで『出来ない奴』と相手を見下していたりする。誰かを見下す人は自分の中に劣等感が芽生えやすい傾向にあるのではないか、と感じている。当たり前の事だ。誰かを見下したりすると、どこかで自分も誰かから見下される立場になる。

『今の自分も自分であり、ダメな自分でも頑張っているし、自分にはここまでしか出来ないな』と、きちんと述べつつ、でもここで立ち止まるつもりはありません!とその人が言う時、その人の中には劣等感は微塵もない。何とも、誰とも、自分を比べず、自分自身の出来る事をよく理解しているからだ。そういう人はまっすぐに、歩みをとめる事なく頑張れると思うし、私も好き♡

さて、その劣等感であるが、そちらに目を向ければ向ける程、思考はそちらに偏り、あなたにもたらされる現実はそれに応じたものでありましょう、と言ったのが、上記のマルクスの言葉だと私は思っているのだが、ではどのようにそう悪い方向に考えなくても済むのか、という問題にぶち当たる。

反対語に注視する

これは完全に私のやり方なので、指針にも方針にもならない物だが、私は常日頃、そこを意識して念頭に置くようにしている。前に来るものは、いずれも努力次第で手に入れられる物として捉え、その正反対を物事のリスクとして捉えた時、前に来るものは即ち陽、後ろに来るものは陰だ。
但しこれは、光の当てる位置によりその表裏は変化する、という事を前提として、の話だが、例えば解りやすい物の例で行くと

✓入居(前·陽)→✓退去(後·陰)
✓結婚(前·陽)→✓離婚(後·陰)
✓好き(前·陽)→✓嫌い(後·陰)

等がそれにあたる。いずれも陽はポジティブに響く言葉であり、陰はネガティブさを多少含む。誰にとっても、前者は努力次第で又は努力なしで手に入るが、後者は努力次第では何ともならない。

好きな物を好きでいる事はとても嬉しくて楽しい事であるが、嫌いになれと言われても簡単になれるものではない。それはとても困難である。甘い言葉というのは、この、前者だとして、後者に隠れる物の方がより困難だと思うようにしている。所謂、自身の力の見せどころであろう部分。私はそちらに努力という言葉を用いるので、反対語にあたるものは出来れば頂戴したくなく、他人にとってもそれは困難であろうと思うので、投げないようにしている。

上記のように考えると面白い事に気づく。こちらも一番わかりやすい事をあげると

✓細い(前·陽)→✓太い(後·陰)

だ。細い事が良きことのようにされている世の中で、太いというのは、反対に来る。という事は、太い人が痩せるのは努力次第で陽に持って行けるのだが、細い人が太ろうとしても難しいのだ、という、他人の抱える痛みにも同時に気づく事が出来る。

あんなに太って……と落胆される時、それは努力で改善できる(かもしれない)。これを多くの人は、前者で努力すべき、として、後者はなんともならない、と理解しがちなように思う。結婚が良い例だ。結婚するまで相手に気にいられるように己を磨く。結婚を手に入れた!ゴールだ!と思いがちだけど、必要な力を発揮すべきは後者!!前者は果報みたいなもので、寝ていても、運が良ければ手に入るかもしれない。結婚も入居もタイミングだし、結構あっさり決まる事もあるけれど、後者の方は何かしら努力がいる。仕事なんか特にそうだろう。始める時には割とあっさり決められても、辞めたくなった時、本当に躊躇する。

『何でこうなんでしょう』と言われても、自分が決めて走らせた限りは何かしら努力して改善か脱却を図らねばならない。それを自分が決めた事として認識している人は、周りはああなのにこうなのに、と劣等感に苛まれなくて済む。だってこれも自分が選んだ事だし仕方ないね、と、これを選んだので事の運びようによってはこうなるかもしれない、そうならない為には、を考えている人は上手く運用できるかもしれないし、万が一運用できなかったとしても、ここぞ努力すべき時!と反対語の後者の部分を思っていれば、誰も羨まずに済むし、目に見えない誰かの努力も歓迎することが出来る。人を見下さずに済む。あの人もきっとそうして努力して手に入れたのだな、と、どんな人にも思える。

それは物事に必ずある、反対側の陰、と念頭に置いておくだけでも全く違うものだ。

私の場合は、それ故に他人に抱く劣等感などはあまりなく、健やかに生きられている。自分がまだまだだと思っても、比べる時は、以前の自分と比べて、他人とは比べない。誰もが良い部分も悪い部分も持っていて、それが人だと感じている。わざわざ誤認知の間違った劣等感などで、自分の道を閉ざすような勿体ない事はやめにして。

皆さんもどうぞ健やかに。出勤します!読み返しは致しておりません。誤字脱字、お許しください。


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