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うまく言語化できない自分の気持ちを汲み取って大事にしたい

天候のせいだろうか、昨日今日と、とっても気持ちが沈んでいる。いつも日課であるボクササイズの早朝プログラムに通うために6時頃には起床しているが、今朝は9時頃まで寝ていた。こういう日には在宅勤務がありがたい。

自分の所属する会社で、大きな組織変更があった。もともと流動性の高い企業ではあるので異動や転職も盛んである。それでもやはり、組織が解体され、チームもばらばらになるというのは少々寂しく感じてしまう。そもそもフルリモートワークでほとんど顔も会わせていないためそこまでの思い入れもないのだが、そういった点も少し寂しい。

もちろん、流動性の高さや、フルリモートワークによって避けられているマイナス面も存在する。気の合わない上司や同僚がいたとしても接触は最低限で良くなるし、煩わしい通勤も存在しない。でも、自分にとっての「はたらく」ってこれでいいんだっけ?と疑問が生じてしまった。

もともとそんな思いはずっとあったのだが、今回の組織変更でその思いは強くなった。自分はもっと色んな人と直接出会いたい、いろんな場所を仕事を通して訪れたい、仕事に関係のない雑談を楽しみたい、仕事で生まれる感動や嬉しさ、不満・辛さを誰かと分かち合いたい、自分の提供するサービスで誰かが喜んでいるのを目にしたい。

今の状況が恵まれていることも分かっており、自分の中の理性的な人格が、「これで不満を抱くなんて贅沢だ」と感情的な人格を押さえつけている。でもやはり、感情的な部分では苦しいと感じているのだ。

ここ最近、もっと、感情・本能的な自分の気持ちを大事にしていきたいと感じている。中学生ぐらいから今まで、ずっと理性的な考え、社会的な価値観重視で生きてきてしまったように思う。でもその結果今幸せになれてる?と問うと、全然そんなことないなと思う。

コロナ禍なってから約4年間、フルリモートワークで限られた人にしか直接会っていなかったから、社会的な目を気にする場面が減って、価値観がフラットになっている側面もあるかもしれない。特に最近は、本当に人生は過ぎるのがあっという間だということを実感しているのも大きい。コロナが始まったときは20代だったのに、気付いたら30代になってしまっていた。

今まで、自分の中のうまく言語化できない不満や憂鬱な気持ちは単なる「わがまま」だと抑えつけていた。でも、抑えつけるんじゃなくて、言語化できない気持ちをくみ取ってあげて、いかに自分の本能的な欲求を現実社会で実現してあげられるかを考えて実行するのが本当に大切なことなんじゃないかと思うようになった。

人生は、周囲の価値観に合わせるものじゃなくて、自分の感情の振れ幅を最大限豊かにしてあげるためのものじゃないのか。どうせいつか終わりを迎えるのだがら、もっと感情の赴くままに生きてみたいと思う。

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