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冴えたやり方

久しぶりに会った友人から、これは見た方がいい。安楽死の概念が変わった。と見せてもらったドキュメンタリー。

色々考えさせられた。と友人は言っていて、でも、「最後まで見て」と先の展開をついつい予測してしまう私に視聴を促してくれた。

彼女がとても、このドキュメンタリーに真剣に色々と感じているのがわかった。

一方でわたしは、実はこのドキュメンタリーを見ていることや、この映像のなにが彼女を惹きつけているのかに、あまりピンときていなかった。
もちろん、このご家族の別れのシーンには涙を流してしまったし、心苦しくはあった。

でもそれにしては、なんというか、彼らがあまりにも幸せそうだったから。
何が問題なのかわからなかったのだ。

不本意な死に向かうご家族のドキュメンタリーを見て、彼らを「幸せ」と感じるなんて一体どういうこと?と思われるかもしれないが、
なんだろう。

なんというか、このドキュメンタリーの中心で安楽死を選ばれているお母さんは、私にとって、考えうる限りの非常に的確な最適解を辿っているように思える。

病気の痛みと闘いながら、日常生活をコントロールできるうちに、その選択をしなければ転がっていくであろう不幸を、可能な限り回避している。

お嬢さんたちへ5.6年先の誕生日メッセージを送るようなアイデアや気遣いを形にし、結婚式に該当するような招待状や周囲への手配も自分をコントロールできるうちに、と怠らない。

お母さんの死後、ご家族はこの件で孤立することなく、ママの話をできる人、力になってくれる人たちが、たくさんいる状況を作られている。彼女にも、彼女の家族にも、社会的な資源が、たくさんある。

そもそも、いまどきの日本で、世界一物価の高いスイスにてカウンセリング付きの最後を迎えることができるホスピスも、一般的にはなかなか手の届かない選択であろうと思う。

記事にも書かれていた。
このようにご家族が一致して、故人を見送れるケースは数少ない

死に方の選択は、生き方の選択でもある。

このドキュメンタリーが描いていたのは、「安楽死」というテーマだが、
私は、世にも幸せな一幕のうちのひとつを見せられていたと思う。
作品のあり方も、そこに落ち着いていたように思う。

生き死にを選べる人と、選べない人。
望む望まないや周囲の理解、理解のなさに関わらず、

社会的な環境や歴史的な背景やその人の立場にもよる。
この状況で安楽死を選べる人が、選べるようになる社会を望むのは、とても自然なことであると思う。

本当は「安楽死」を選ばなくても良い人が安楽死を選んでしまうような仕組みや、本来であれば選びたくないと答える人が、そこに誘導されるような仕組みになってしまうことを回避する方法とセットであれば

安楽死が一つの方法として、最適解という現実は、ありだと思う。



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