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人形ちゃん

 すっごい可愛い人形を買ったの、と絵美里が嬉しそうに話す。
 長引いた女子会で終電を逃し、徒歩圏内にある彼女の家に泊めてもらうことになった。その帰路でのことだった。

「なんかねえ、一目惚れ」言いながら絵美里は眉をひそめる。「この歳で人形に落ちるってやばいよね」
 卑下しているようで、明らかに惚気ている。本当に、男に恋に落ちているみたいだ。あるいはペットにメロメロになっているみたいに。
 しかし珍しい。絵美里はなにかそういう、いかにも女趣味という感じの女性ではなかった。
 また結婚が遠のいただとか、もう諦めただとか、この年頃の女の命題について適当に話しながらしばらく歩いて、絵美里のマンションに着いた。

 玄関に足を踏み入れた瞬間、これはヤバいかもしれないと胸が騒いだ。
 初めて訪れる場所で何かを検知するような、所謂いわゆる「第六感」的なものを信じたことはない。が、見えない警告灯が体の中でギラギラに光っている。警笛が鳴っている。気を付けろ、もしくは引き返せ、と。
 果たしてその第六感はすぐに的中した。
 絵美里が廊下のスイッチを押す。暖色の灯りが、すっきりと片付いた廊下を照らした。私の眼が何かを視界に捉える。
 その異様に、思わず「ひゃっ」と声が出た。絵美里が振り返り、「もうっ」としかめ面をする。
 私はそこから視線を外せなかった。真っ白な顔の市松人形が、廊下のど真ん中に立っていたのだ。
「迎えに来てくれたのに驚かないでよぅ」さも当然のように、絵美里は人形を抱え上げる。「ねっ」
 私はその場でしばし固まっていた。急に家族から連絡が入ったとか、何か理由をつけて帰ろうかと思った。しかし結局脳の処理が追い付かず、絵美里に促される形でおずおずと部屋に上がった。

 お世辞にも可愛いとは言い難い。というか、失礼を承知で言うと不気味で気持ちが悪い。
 頬を赤らめた絵美里が胸に抱くその人形は、周囲の空気の色が変わって見えそうなくらいの威圧感を放っている。
「確かになんだか怖いかもって思ったんだけどね。気が付いたら買ってたの。いつも添い寝してくれるんだから」
 購入動機さえ怖く感じるが、滅多なことを言うと何か危害を加えられそうで口を出せない。添い寝してくれるとはどういうことだ。
「その……家の中で持ち歩いてるの?」
「ううん、勝手に来てくれるの」
 聞いた瞬間、全身が粟立つのを感じた。廊下で見た光景。冗談に思えない。
 なおも人形について語る絵美里の話を遮って、彼女が喋り疲れるまで次から次へとくだらない話題を必死に出し続けた。

 できることならこのまま――電気をつけたまま――朝を迎えてしまいたかった。
 しかし仕事終わりの酒が随分と効いたようで、蛍光灯の灯りに耐えられなくなり、結局電気を消して横になってしまった。
 自ら積極的に危険に飛び込むホラー映画に非現実感を感じていたくせに、それが自分の身に起こると同じようなことをしてしまう。例えば運命の流れというものがあるのなら、私たちの意志は呆気なくそれにからめとられてしまうものなのかもしれない。

 気が付いたのは深夜三時過ぎだった。テレビラックに収まる何かしらの機械が、その時間を表していた。
「もう寝ちゃった」
 すごく小さな声だった。
「あーあ」
 残念がっている。
「寂しいなぁ」
 人形の声だ、と思った。聞きたくないのに、耳がどんどん冴えていく。
「起こしちゃおっか」
「ううん、だめ。せっかく寝たんだもの」
 明らかに意志を持って、人形が喋っている。自問自答している。

「こっちの子は起きているね」

 どきりとした。なんでわかるんだ。外に聞こえそうなくらい、鼓動が強くなっていた。それと同時に思った。かわいい。
 声が、かわいい!
「二人に挟まれて寝たいなぁ」
 私もそうしたい。そうしたいよ。
「そしたら嬉しくって嬉しくってドキドキしちゃうんだろうなぁ」
 ああ。もう。愛おしくてたまらない。なんなんだこの展開は。
「でも絵美里ちゃんぐっすり寝ちゃってるから。私じゃベッドまで運べないから……」
 突然起き上がって、絵美里の横で寝ちゃおうか。でもいきなりそんなことしたら、人形ちゃんが驚いたり逆に恥ずかしがっちゃうかもしれない。
「人形ちゃん」だって。何言ってるんだろう、私。

 気が付くとまた眠ってしまっていたようで、気が付くともう昼も近づいた時間だった。
 続いて絵美里が目を覚ますと、私は昨夜の出来事を矢継ぎ早に報告した。まるで私まで呪われたみたいだと思ったが、こんな呪いなら望むところ。どんと来いだ。話を聞いた絵美里は疑うどころか喜んでいた。
「また来てね。絶対」
「うん、絶対行く」
 玄関先の見送りに、私はにこやかな顔で応じた。絵美里の背後を覗き込むと、人形ちゃんが隠れるように立っていた。
 か、かわいい……。
 微動だにしないけれど、手を振ってくれている気がした。

 後ろ髪を引かれる思いで絵美里の家を後にした。来た時に感じた嫌な空気は、帰る頃にはすっかり霧消していた。きっと、私が人形ちゃんを怖がらせてしまっていたのだろう。突然酔っ払いが来たら怖いよなそりゃ、と反省し、ネコみたいだな、と思ってさらに愛おしく思った。
 絵美里はその後も人形ちゃんと仲良く暮らして、一年足らずぐらいのタイミングで呪い殺された。

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