駆け抜ける魔女が語り掛ける彼女に
私の街には魔女がいる。
長崎駅沿いを流れる浦上川。そこにかかる旭大橋を渡ってすぐのところに私は住んでいる。
悟真寺という寺があって、目の前の通りを悟真寺前通りというのだが、そこに魔女が現れるのだ。
ママチャリで通りを駆け抜ける姿をたびたび目にする。
格好はと言うとメイド服一丁で、良い風に言えば水彩画のあさがおのような淡い紫色。悪く言えばひどく色あせているように見える。年の頃七十くらいだろうか。痩せていて背は高く、コンクリートみたいな灰色の長髪。服も、髪も、彼女自身にも、全く水気を感じない。からからに乾いている。
黒い服もマントもやたらつばの広い帽子も身に着けてはいないのに、その風貌は魔女としか言い表せない。高い鷲鼻もそう見せる要因なのかもしれない。
悟真寺前通りを南に進むと、長崎港に突き当たる。
夜だった。
岸沿いに設置された落下防止の虎柄のブロックに腰掛けて、私は携帯電話を耳に当てていた。その向こうにいる彼氏は押し黙っていて、何も言ってくれない。
何もかもが不満だった。仕事は忙しくて理不尽で、彼氏にはめったに会えない。というか会いたいと思ってくれているかもわからない。
「浮気してるんでしょ」
無意識にそう口走っていた。沈黙は続き、耐えきれなくなって乱暴に電話を切る。
涙が出そうだった。海辺で泣く女なんて見ていられない。自分はそんな女じゃない。歯を食いしばって耐える。
「なにをあんた」
背後から突然しわがれた声がして、私はびくりと身を縮めた。
街灯の下に、魔女がいた。
いつからいたんだろう。気味悪く思いながら腰を浮かす。
「言っておくけどね」
立ち去ろうと思った私に、魔女は声を向けた。
不思議な感覚を覚える。生涯関わることは無いと思っていた存在が目の前にいて、私に話しかけている。夜の色と街灯の色が混じって、メイド服姿がさらに怪しさを増していた。
「なんですか」
ようやく一言だけ返す。
「まだ知らないようだから言っておくけどね」老婆は苦い顔で言った。「この世界はあんたのためにあるんだからね」
意味が不明だった。
いきなりなんなんだこのばあさんは。
「世界があんたのためにあると思ったら大間違いだ」
なんて言われたら、そんなことはわかっていると言い返しただろう。世界は私のためにあるだって? 寝ぼけたこと言うな。猛烈に言い返したくなって、よせばいいのに、私はその場に留まった。
「理不尽だなんだかんだ、誰も私のことをわかっちゃいない。唯一の味方もきっと浮気をしている。あんたはそう思っている」
魔女は一方的に言う。
「はぁ?」
言い返したかった。勝手なことを言うな。勝手に話すな。私を話し相手に認定するな。あれこれと一瞬で思い浮かんで、だけど「なんなのあんた」としか言えなかった。
魔女は街灯の下を離れて、私に背を向けるように係留のブイに腰掛けた。
「世界中の人間はあんたのために配置されてるんだ。あんたが嫌いな人間も、あんたが好きな人間も」魔女は人差し指を立てる。「知らないんだろう。まだ」
どこの誰かも知らないくせに、こいつはなにを言うんだ。魔女を睨んだ。それになんの効果も無いのに。
「全部があんたのためってことはね、全部があんた自身だと思ってもいい」魔女は背後に親指を向けた。「あの家の家族も、あの家のじじいも、あの家の学生も、みんなあんただよ。容器が違うだけさ」
つられて後方に目を向けてしまう。その時、視界の端に動くものがあった。ちらりと目をやると、どうやらカップルらしい仲睦まじげな二人組がこちらへ向かってくるのが見えた。
「なんなのその理論。ていうか屁理屈」
私は虎柄のブロックに腰掛けた。この妙な光景に眉をひそめるカップルの顔を、見たくなかった。
「あのカップルも私のためなわけ」
「そう」
「なんのため」
「別に、意味はないよ。今のところは」
「なにそれ。おばさん、占い師かなんか?」
腑に落ちて、私は尋ねた。セルフプロデュースだと思えば、この格好に説明が付く。この辺りに住んでいて、気まぐれに散歩をしていたらたまたま見かけたのが私だったのだろう。この状況は、ただの気まぐれの結果だ。
「私のための世界だったらさ、なにしたっていいわけ? なんも考えずに好き勝手生きていいの?」冷やかした態度で言う。「そんなわけないでしょ」
「そりゃいいに決まってるさ。この世界はあんたのためにあるんだからね」
世界が私のためなのだとしたら、この現状はなんなのだ。生きにくくて仕方がない。それどころか、今は世界中が暗い。
「じゃあ私が念じれば好き勝手動かせるっての? あんたも、あのカップルも、消えろって思えば消える?」
「そんなわけないじゃないか」
「それぐらいできなくてなにが私のためなのよ」
「あんたは『信じないこと』を信じている」魔女は私を見据えて、急に真剣な顔をする。「それに何の意味がある。『信じること』を信じなよ」
「なにを哲学みたいな」
「哲学なもんか」今度はふっと力を抜いて、優しい声で魔女は言った。「そんなこと言って遠ざける必要はない。小難しく考えなくてもいいんだ」
眉間に力を込める。なぜだか、そうしないと涙が出そうになった。
「私は消えない。誰も消えない。あんたのために」
いいことも、悪いことも、あんたのために起きる。そう言うと魔女は立ち上がった。
「みんな好き勝手生きてるよ。あんたももっと、好き勝手に生きていい。――断定するよ。世界はあんたのためにある」
うずくまって、しばらくして、顔を上げるともう魔女はいなかった。
魔女はやっぱり魔女だったんだ、と身も蓋もなく考える。
立ち上がって振り返ると、家々の灯りが目に入った。
街灯が、家の灯りが、信号機が。私が転ばないように、帰路を照らしていた。
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