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療治(1247字)

「どけよババァ」
 私の財布から紙幣を数枚抜き取った息子は、立ち塞がる私を突き飛ばして家を出た。

 随分と粗暴な子だった。
 思い返してみても、いつからそうだったのか、いつからその兆候が表れたのかもわからない。といっても昔からこうだったわけではなく、幼児期はそれこそたまのようで、少なくとも小学生の一~二年生の頃まではどこを切り取っても鮮やかな思い出にできた。
 それなら三年生の頃から変わっていったのではないかと言われても曖昧で、むしろ中学や高校生だった頃を思い出しても優しかった息子の思い出が心に刻まれている。ただし、その頃には今と同じような暴力性を身に纏っていたことも確かだ。

 何度となく息子の通う学校に呼び出された。備品の損壊で。無断欠席で。暴力で。
 悪友に染められたのではないかと責任を他者に押し付けたい気持ちが私にはあった。息子を、ひいては自分を擁護したかったのだ。教師にそれとなく尋ねてみたが、どうやら誰かとグルになって事に及んでいるわけではなさそうだった。
 共犯がいないことに安堵するべきか、ただ一人息子だけが異物のようになってしまった事を嘆くべきか、私には心の置き所が見つからなかった。

 息子がバイク事故を起こしたことを、警察からの電話で知った。
 取るものも取り敢えず伝えられた病院に車を走らせる。誰と、あるいは何と事故を起こしたのか。どこに迷惑をかけたのか。そんなことは微塵も浮かばず、ただ息子の安否しか考えられなかった。親としては当然のことかもしれないし、どうしようもない馬鹿親なのかもしれない。いや、世間様からするときっと後者だ。
 病院に到着した時、息子は画像診断の検査を受けるために待合室で待機していた。
「くんなよ」
 駆け付けた私への第一声だった。

 息子は車いすに乗せられていたものの、幸いなことに大事には至らなかったようで、事故自体も転倒による単独のものだったそうだ。ほっと胸を撫でる。とは言え何の心配もいらないという訳には行かず、とりあえず一泊することになった。
 診察が終わると私は一度帰宅し、延泊に備えてタオルやら着替えやらの準備をして病院に戻った。数時間待ってもう一度検査を行い、悪化の様子が無いことを確認して私は一旦病院を出た。
 今のところ心配はなさそうだからと私は帰宅を促されたが、すぐに駆け付けられるように車中泊をした。
 
 病室に戻った私に開口一番「なんなの、だから」と息子は言った。
 三度の検査後の診察でも、私が医師に何か尋ねる度に息子が遮った。埒が明かないと思ったのか、私だけ診察室を出るよう医師に促された。素直に従い、診察室前で待った。

 再び診察室からお呼びがかかるまで、五分と経たなかった。
 入室した私を迎えたのは、医師と息子の笑顔だった。
 息子はまるで求人雑誌に載っているスタッフの笑顔くらい、快活そうな笑みで私を見つめた。
「叩いたら治りました」
 と医師は微笑んだ。
「保険は効きますか?」と尋ねる私に、医師は変わらぬ笑顔で「ええ」と笑いかけた。



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