見出し画像

10年という節目に思うこと

10年前の今日。2013年11月7日のこと。
「潰瘍性大腸炎」という診断を下された。所謂、難病だ。

潰瘍性大腸炎とは…
大腸の粘膜にびらんや潰瘍を作る原因不明の炎症性腸疾患。
症状としては血便、粘血便、下痢、重症化すれば、水様性下痢と出血が混じったり、滲出液と粘液に血液が混じった状態となる。
それらに加えて、腹痛、発熱、食欲不振、体重減少、貧血などもある。
多くの患者は再燃と寛解を繰り返す病気である。


病院を受診する数週間前だったか数ヶ月前だったかハッキリとは覚えていないがトイレでの異変には気が付いていた。
一日に何度も襲ってくる腹痛とトイレに駆け込む回数の多さ、目視でわかるくらい粘膜と血便が出ていたが公募展前の追い込み時期だったこともあり、見て見ぬフリをしていた。
友人4人と世間話をしていた時にその話をして「血が出るけど、痔だと思うんだよね〜」とヘラヘラと話す私に、元看護師の友人の表情が一気に変わり「つんちゃん、今すぐ病院に予約の電話を入れて。予約の電話を入れないと今日は帰さないよ」と強い口調で言ってきた。
正直なところ、事前にGoogle検索をしていてなんとなく嫌な予感がしていたのであえて病院に行くことを避けていたのに、彼女の鬼気迫る姿に病院に予約の電話を入れるしか選択肢は残されていなかった。

受診当日。初めての病院へ。
問診や大腸カメラ、様々な検査の末に医師から「間違いなく、潰瘍性大腸炎です。」と告げられた。
特別、驚くことはなかった。
事前にネットで調べて予想はついていたから。
だけど「まさか、本当に難病患者になるとは…」とは思っていた。
大腸カメラで撮影した私の大腸は、大量の鮮血と膿と粘膜で埋め尽くされていた。

随分と遡って、私が中学生の頃。
「なんとなく、将来は難病を患いそうな気がする」そんな予感は常にあった。
いつも食事には気を付けていたし、暴飲暴食をするタイプでもない。
だけど、なんとなく「難病患者になりそうな気がする」という根拠のない自信だけはずっとあった。
それがまさか現実のものになるとは中学時代の私もビックリだろう、ね。

話を戻そう。
医師から病名を告げられて診察室を出た後、本人はさほどショックを受けていなかったのだが、待合室にいる看護師さんたちが明らかにソワソワしていた。
そして、待合室の椅子に腰掛けた私に気の毒そうな顔をした看護師さんが近付いて来る。
「病気のこと」「症状のこと」「特定疾患の受給者証の申請のこと」「今後の食事制限を含む生活のこと」1つ1つ、丁寧に説明してくださった。
一言一言、言葉を選びながら説明する姿を見て「あー…難病って可哀想って思われてるんだ」そんななんとも言えない感情が込み上げてきた。
薬局へ行くと1日あたり23錠という信じられない量の薬を処方された。
元々、錠剤を飲むのが苦手な私がこんな大量な薬を飲まないといけないなんて…そっちの方が憂鬱だった。
加えて、病院では食事についても指導されたが、「今日から一切の乳製品をやめるように」と言われた。
牛乳が大好きで、冷蔵庫に牛乳が無いとソワソワして落ち着かない牛乳中毒の私は何よりもそれが一番辛かった。
大袈裟なんかではなく、人生の楽しみを1つ失ったような、そんな気持ち。
だって、1日に800ccとか飲んでた人間だ。辛いに決まってる。
大好きな生クリームも、チーズも、全て禁止になった。

診断が下されたその日から、薬物治療に加えて、まぁまぁ厳しい食事制限にて病気と向き合うように。
薬物治療のために処方された大量の薬の中にステロイドがあった。
それだけがどうしても体質に合わず、副作用でもある「精神的に落ち込む症状」に悩まされた。
「死にたい」という感情が次々と襲って来るのだ。
医師に相談するとそれが副作用だということが判明し、ステロイドの投薬は即刻中止になった。
ところが、潰瘍性大腸炎の活動期はステロイドで一気に炎症を抑えるというのが治療の基本だった。
案の定、ステロイドを辞めた私の病状は日に日に悪化していく。
増えるトイレの回数、強くなる腹痛、便器の中は常に真っ赤な血で染まっていた。
投薬もほとんど効果が見られないまま5ヶ月ほどが過ぎ、とうとう入院することになった。
入院といっても、絶食でただただ病院のベッドに寝ているだけだ。
ステロイドも使えないのだから治療も出来ないのだ。
カロリー消費が激しいので、色々と動くことも禁止されていた。
主治医は私と同じ歳の男性医師だった。
あまり笑わないし世間話もしないような先生だったけど、私が置かれている状況については先生なりに考えて、色々と有り難い提案をしてくださった。
その優しさに思わず涙したことを今でも覚えている。

空腹に耐えられず先生に泣きつくと、治療食を出してもらえるようになった。
潰瘍性大腸炎の再燃時(寛解時は食事制限はそこまで厳しくはない)は「高タンパク、高カロリー、低脂質、体残渣、低刺激」の食事が基本だ。
本当はトンカツが食べたい。だけど、脂質なんてほとんどないようなメニュー。
それでも、絶食よりも何倍も幸せだ。

2週間の入院を経て、退院。
症状は大して変わっていない。それでも、「あとは、かかりつけ医で」と。
かかりつけ医に戻り、新たな治療に移行することになった。
潰瘍性大腸炎は発症原因もわからなければ、治療法も確立されていない病気だ。
それでも、他の難病に比べればたくさんの治療法が日々の研究のおかげで開発されていた。
投薬以外にも、点滴や注射、人工透析の機械を使ってする治療や手術など、選択肢は多くあった。
それを1つ1つやってみて、自分に合った治療法を探していく。
色々と試して、「よし、これが合うぞ」となっても、時間と共に効きにくくなって治療の変更を余儀なくされることも度々あった。
数々の治療法を見てみると、おそらく8割〜9割は経験済だ。
潰瘍性大腸炎はいくつかの型があって、私は「慢性持続型」というタイプだった。
慢性持続というくらいだから、本当にずっと「再燃」した状態だ。
私は9年間、腹痛と倦怠感、1日に何度もトイレに駆け込んだり、下痢や血便に悩まされた。
トイレに間に合わず、漏らしたこともあったりで、出かけること自体もストレスになっていた。
常に倦怠感があるので横になっているか、トイレに篭っていた。
とにかく、「なんとか普通の生活を送りたい一心」で、ありとあらゆる治療法を試した。
新しい治療はいつだって怖いし、ドキドキする。
我慢強い私でも痛くて辛い治療も、遠い病院へひどい倦怠感の中、自力で運転して通う治療も、1回の治療に何時間も拘束される治療も、全て「なんとか最低限の日常を送りたい」という前向きな気持ちによるものだったと思う。

私はこの10年、ずっと意識していたことがある。
「病気のことを敵対視せず、共に仲間として生きていく」そして、「この病気に関しては何があっても悲観しない」ということ。
診断が下された時の看護師さんの気の毒そうな顔やこの病気のことを知った友人や知人たちの気を使っている姿を見るのが辛かったからだ。
だから、せめて患者本人は底抜けに明るくいようと決めたのだ。
「人生の話のネタが増えたんだ」本気でそう思っている(これはあくまで私の解釈です。他の病気の方に対してはそんな風に思っていません。念のため。)

そんな前向きな姿勢がいつも病院関係者からも不思議がられていた。
「あなたみたいに底抜けに明るくて前向きな患者さん、なかなかいないよ」と。
「医師になって、あなたみたいな患者さんに出逢えたことは僕の財産で、これからもきっとあなたのことを忘れないと思うよ」と転勤が決まった医師から言われたこともある。
総合病院に別の診察で受診する時に、以前受けていた診察科の受付さんに会いに行くと毎回大喜びしてくれる。
「本当は病院では会えない方がいいんだけど(健康だと病院には行かないから)、こうやって会えると本当に嬉しいよ」と言われる。
設備の関係で、治療法によって様々な病院で治療を受けるのだけど、出逢う医療関係者の方々が皆さん本当に暖かくて、とても可愛がってくれて、きっとそれも治療を頑張って続けられる理由でもあるのだと思う。
だから、私はこの病気になって良かったと思うし、すぐに無理をしてしまう私の体調のバロメーター役になってくれているので、この病気には感謝しているのだ。
病気にならなければ出逢えなかった人たち、経験することの出来なかった出来事、健康であることがどれだけ素晴らしいことなのかを身を持って知ること。
全て、この病気のおかげなのだ。
もちろん、この10年間で一度だって「この病気にならなければ良かったのに…」と思わなかったかと問われれば、決して「イエス」とは言えないが、もうこの病気は「私の一部」だから、そんな病気のことも愛してあげたいし、いつも頑張ってくれている大腸や細胞たちにも心からの感謝と労いを送りたい。

この病気は10年を越えると、ガン化リスクが上がるらしい。
診断された時「まだまだ先のことだな」と思っていたのに、あっという間に「その時期」を迎えた。
9年を過ぎたあたりから合う薬が見つかって、食事にも気を付けて、疲れやストレスをなるべく溜めないなどして、病状をだいぶコントロール出来るようになって、生活の質も随分と上がった。
食べたいものは相変わらず食べられないけど、それでも元気で活動できる方が私には有り難い。
ここからはガン化しないように今まで以上に定期的な検査と食事管理と無理をしない生活を意識して生きていこうと思う。

今日は、そんな「10年記念日」。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?