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不思議な縁の友人のこと

私には大学時代からすごく仲のいい友人がいる。
「すごく仲がいい」と言っても、どこかに遊びに行くとか頻繁に会うとか、そういう表面的な仲の良さではなくて、なんというか、「何も話してないのに全て理解してくれる」ような友人。
私が滋賀県を離れてから一度も会っていないので、もうかれこれ20年は実際に本人にも会っていない。テレビ電話をしたくらいだ。
「あなたのことが大事だ」なんて言葉も言わないけど、自分の人生において無くてはならない存在で、それはお互いにそういう認識で日々を過ごしている。向こうの気持ちは知らんけど。
友人にラインを送っても返って来ることは稀だし、ましてや電話なんてほとんど繋がることはない。もちろん、コールバックもない。
だけど、私がピンチな時や重要な用事を伝えたい時は何故か電話を取ってくれる、不思議な縁。
こちらがピンチ過ぎて連絡も出来ない時や、向こうが何かを感じた時は必ず「突破口になるヒント」をラインで送ってきてくれたりもする。

何で、わかるんや…
監視カメラでもあるんか…?

と言いたくなるくらいピンポイントで届くのだ。
本人にどうしてわかるのか聞いたら「つんの感情や体調の良し悪しがいつもダイレクトに届くから」と言う。
だから、電話をかけても「その内容が急を要したり重要かどうか」がわかるのだそうだ。
不思議だ。実に不思議なのだ。

常に心の中を見透かされているような、そんな気持ちになる。
性別の壁を超えたその友人は、出逢った時から「あきちゃんの存在」に気が付いていたそうだ。
「あきちゃん」の存在を最近になってハッキリと認識し始めた私が友人にその話をしたら「僕は、ずっと「つん」としてではなくて「あきちゃん」を見て接してたからしんどい生き方してるなーくらいにしか感じてなかった」と言っていた。

「あきちゃん」についてはこちらの記事に書いてあるので、良かったら読んでみてください。

生きるのが辛い私がいつも「生きるのが辛いから悟りを開きたい…(悟りを開けば楽になると思ってた)」と事あるごとに愚痴をこぼしていたら「幼少期のつんが全ての答えを知ってる。その子に聞けばいい。その子はすでに悟ってるから」と友人がよく言っていた。
当時はその意味がわからなかったし、幼少期のあきちゃんの記憶も曖昧だった私はその重要なヒントも心の片隅に置いておくことしか出来なかった。
だけど、そのヒントは今日までの日々の中で、1日たりとも思い出さない日はなかったし、そのくらい私にとっては何だか気になるヒントだったのだ。

その意味がわかり始めたのが、今年の10月頭くらい。
友人と知り合って23年もの月日が経っていた。今まで生きてきた人生の半分をとっくに過ぎている。とんでもない月日だ。

そんな友人に今日、どうしても伝えたいことがあったので電話をかけてみた。
いつもなら「今日は多分、電話に出てくれないな」と思いながら電話をかけるのだけど、今日は「絶対に電話に出てくれる」と確信を持って電話をかけてみた。
案の定、電話が繋がる。
「やっぱり、つんはすごいな〜いつもなら、この時間は忙しくて電話に出られへんねん。たまたま今日だけ、しかも、この時間だけ予定が空いてん。まぁ、今からしようとしてた昼寝を邪魔されたけどな」と笑いながら感心していた。
前回電話をかけた時もたまたま「その時間だけ」手が空いたタイミングだったし、やっぱり不思議な縁なのだ。
「そろそろつんから連絡があるな」なんてこともわかるらしい。

その電話で要件を伝えた後、その話の流れで私なりのここ最近の出来事によって得た気付きを友人に話すと「ようやくそこまで辿り着いたか…でも、まだまだやけどな」と笑う。
わかってる。まだまだなのはわかってる。
それでも、この23年間分の掴みどころのないぼんやりとした感覚がクッキリハッキリしたことは私にとってとても嬉しい出来事なのだ。
人生について、蕎麦について、フロランタンについて、AI技術について、そんな取り留めのないことを2時間近く話していたら、お昼ご飯の時間になる。
電話を切る時、ラインを終わらせる時、必ずお互いに言うことが「また人生が交差する時に会おう。ご安全に!」という言葉だ。
連絡が取れなくても責めるわけでもなく、その縁に執着するわけでもなく、お互いの人生がまたどこかで交差するその時まで、それぞれの人生を生きることを願うその関係性がとても心地いい。
ついでに言うと、ものすごくイケボなので、イヤホンから鼓膜に流れてくる友人の声と関西弁がとても心地いい。

そんな友人の存在に今日も心が強くなる。
次にお互いの人生が交差するその時まで、楽しく生きていこうと思う。

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