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ぼくが、ガンになった時のこと

このnoteを書こうと思ったきっかけは、写真家であり血液がん患者でもある。幡野広志さんのこちらの著書を読んだことでした。

タイトルの通り、ぼくは高校1年生のとき、ガンになりました。正確な病名は、右精巣腫瘍。精巣のガンです。

高1(当時16歳)の秋にガンが発覚して、患部を摘出するための手術を行い、翌年明けには抗がん剤治療のために、3ヶ月入院しました。

上記の治療を経て、今は基本的に完治しています。検査のために定期的に(当初は3ヶ月に1回くらい、今は年に1回)病院にかよっています。

このことは、ぼくとの付き合いが長い人でも、知らない人が多いんじゃないでしょうか。隠してるとかではなく、面白い話じゃないし、タイミングもないしと思って話してないだけなんですが。

そんなことを今さらになって書こうと思った理由の一つは、自分にとっての備忘録としたい、ということです。

幡野さんの著書を読みながら、当時の経験が蘇ってきたのですが、もう8年前なので、思い出せないことも多くて。なかなかない経験をしたのに、もったいないし、どこかに書き残しておこうと思いました。

もう一つは、幡野さんがブログでガンであることを公開したら、数多くのメッセージが届いたというエピソードを知ったことです。そのメッセージの中には、応援や励ましだけではなく、感謝や自己開示のメッセージもたくさんあったそうです。

幡野さんのような影響力はぼくにはありません。それでも、ぼくのエピソードを公開することが、誰かにとって何かのきっかけになるかもしれない。なったらいいなあ。

そんな気持ちで、当時の経験を書いてみることにしました。(noteは大体こんな気持ちで書いてますね。)

ですので、かわいそうだと思って欲しいわけでは全くありません。ガンという言葉の響きは、ただの病名以上にいろんな意味を持ち得ると思っていて(だからこそタイトルにガンって入れてる、という戦略的な部分もありますがw)。16歳でガンになるとか、かわいそうっぽい感強いですけど、今は元気に幸せに暮らしているし、個人的にはガンになってよかったとすら思っているくらいです。

そういったことを踏まえて読んでいただけると幸いです。

当時16歳のぼくは、なんでもうまくいっていた

当時高校1年生だったのですが、この頃めちゃくちゃいろんなことが調子良かったんですね。

成績もよくて、定期テストでは学年240人中で一桁の順位を取っていて。部活では部長を務めていて、陸上部のメンバーを引っ張っていて。さらには文化祭の副実行委員長もやっていました。(ぼくがいた学校は中高一貫の進学校だったので、高1の終わりから高2がリーダー的なポジションをやる代だったんです。)

勉強も部活もそれ以外も、すごくいい感じに進んでいて、毎日が楽しく充実していた日々だったなと思います。ガンガンいこうぜ、状態でした。

病気の発覚

病院に行ってちゃんと右精巣腫瘍の診断をもらったのが11月ごろだったのですが、夏くらいからなんとなくの違和感は持っていました。

精巣が硬くなり肥大化していくのが主な症状なので、当然実感はありました。でも場所が場所なだけに人に話すことを憚ってしまって、気にしないようにしていました。どっかでぶつけて腫れてるだけかな、的な。笑(ちなみにこれが理由で発見が遅れることが多いらしいです。)

ただ、全く腫れが引く様子がなく、ピーク時には握りこぶし弱くらいの大きさになったので、さすがにおかしいなと思い、「精巣 硬化 肥大化」みたいなキーワードでググってみて。いくつかの病気が引っかかりましたが、症状的にどうやら精巣腫瘍っぽいぞ、と。

母親を呼んで、もしかしたら俺この病気かもしれない、と言って、そのページを見せました。

検査と診断、手術

その後は、一旦近所の泌尿器科で診察してもらったのちに、大学病院で検査をして、診断が確定した、という流れだったと思います。

今でも覚えているのは、大学病院の待合室で待っていた時、母親に「気づけなくてごめんね」と言われたことでした。母親としては申し訳なさを感じていたのだろうと思いますが、それに対してぼくは「いやさすがに気づけないでしょw」とも妙に冷静に返したことを覚えています。

良性/悪性とか、ステージとか、そういった細かいガンの状況は忘れてしまったのですが、比較的早めに発見できたため、転移がなかったことが幸いし、死亡するリスクはほとんどない、というような説明を受けた記憶があります。

そもそも精巣腫瘍は若い人(5歳以下か20~30代が中心)がなりやすいガンなのですが、比較的生存率が高く、転移がない限りはまあ大丈夫、という類のガンであるようです。

ちなみに、発生率は100万人中10-15人くらいだそうで、そう考えるとなんだかすごい。

この時のぼくは、上にも書いたけど、発覚したときからずっと、妙に冷静でした。死亡率が低いことを知識として知ったこともあるし、身近にガンになって完治した人がいるからかもしれません。なんとなく自分の状況を客観的に見ている感じがありました。

もちろん、すごく充実した日々を送っていた中で、「なんで俺が」「なんで今」みたいなやるせない気持ちもありました。

ですがそれよりも、ちょっと引いて見ているというか、あまり現実として受け止めていない感覚が強かったです。

その後、なるべく早い方がいいということで、診断が確定した1ヶ月後くらいに手術を受けました。(ちなみにそれまでにいろんな検査を受けました。)

初めての手術で、親もぼくも謎にテンションが上がっていて。手術着の写真を親にパシャパシャと撮られたのを覚えています。もしかしたらぼくを元気付ける意図だったのかもしれません。

手術が無事終わり、患部は完全に摘出できたので、この時点でほぼ完治だったのですが、万が一転移している可能性に備え、3ヶ月入院して抗がん剤治療を行うことになりました。

抗がん剤治療

ぼくのやった抗がん剤治療は、点滴から投与するもの。名前は忘れてしまいましたが、確か3種類やっていたはずです。

抗がん剤なので、髪の毛が抜けたり体がむくんだり、爪の根元が青くなったりと、いろんな副作用がありますが、特に悩まされたのは吐き気でした。

最初の方は大丈夫だったのですが、日が経つにつれて、めちゃくちゃしんどくて。

ご飯の匂いがダメになってしまうんです。嗅いだだけで気持ち悪くなってしまう。味覚が変わったのもあって、この頃はカップラーメンしか身体が受け付けませんでした。それ以外は全部気持ち悪い。

段々と抗がん剤が入っている点滴の袋を見るのも嫌になってきました。普通の点滴の袋は無色なのですが、抗がん剤の袋だけ茶色で、その色を見ると吐き気を催すようになりました。今でもその袋を思い出すとちょっと気持ち悪くなるくらいです。

また、点滴の針を腕の血管から入れるのですが、数日に一度はその針を入れる血管を変えなければならず。入院中は検査のために、3日に1回くらい採血もしていたので、なんども針を入れられたせいで、腕の血管はボロボロになってしまいました。これも地味に辛かった。

ただ、そんな中で本当に恵まれていたと思うのは、家族や友達、看護士さんたちにすごく支えられたという実感があることです。

家族は何度もお見舞いに来てくれました。当時ヒマだったのもあってFacebookに入院の近況を呟きまくっていたのですが、友達がいいねしてくれたりコメントしてくれたりしました。看護士の方々にも、本を貸してくれたり、嫌いな抗がん剤の袋を可愛くデコってくれたり。

いろんな人に支えられて、乗り切ることができたなあと思います。

振り返って思うこと

ぼくは何か大きな意思決定をするとき、「明日死んでも後悔しない決断か?」ということを自分に問います。

それはこのガンになった経験が大きかったなあと思っていて。

まさか16歳でガンになるなんて思ってなかったし、人生って何があるかわからないなあと、人間いつ死ぬかわからないなあと思います。

だから毎日、明日死んでも後悔しないように生きていきたいと思います。とはいえ普段は、死んだら後悔しそうな日の方が多いですがw 東北に行ったのも留学に行ったのも、一番の決め手はここでした。

もう一つ思うのは、身体の違和感には正直になった方がいい、ということです。

何か違和感を持ったら、すぐに病院に行かなくとも、調べてみたり聞いてみたりしてみましょう。身体からの声を無視しないであげて欲しいですね。ぼくも気をつけます。

終わり。

入院してた時のぼく。画質の粗さが時代を感じる。

トップ画像はポルトガル・リスボンの港。

このnoteを書くに当たってなるべく思い出そうと思ったのですが、事実は思い出せても、当時の感情はなかなか思い出せない部分も多かったです。事実ばかりのnoteになってしまいました。スミマセン。

cotree advent note 77日目(?)。最近何日目かよくわからなくなってきた。

6/20追記

このnoteに関する感想やコメントをいただき、それを受けて考えたことをnoteにしました。

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