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#5 地震が起きると感じてしまう断絶について

昨日の夜、地震が起こりましたね。宮城・福島県沖が震源で、5弱。東京でも結構揺れました。

ちょうどそのタイミング、ぼくは新宿のビアガーデンにいたこともあり、かなり揺れは長く感じ、「震源からは遠いけど大きな地震じゃないか」という印象を受けました。

宮城県近くが震源だとわかると、かなり心配な気持ちに。たまたま昨日は、気仙沼がお祭りの日であることもあり、多くの友達・知り合いが宮城の沿岸部にいたので、現地の震度と津波が気になりました。

Twitterなどで情報を集め始め、どうやら揺れは強かったけれど大事には至らなそうなこと、津波の心配がなさそうなことがわかると、一安心し、現地の友達に連絡を取りました。

ぼくはもう、かれこれ5年くらい東北・被災地にずっと関わっています。関わっている、と言っても遊びに行ったり友達連れて行ったりですが、たくさんの繋がりが東北、特に気仙沼にあります。

気仙沼で知り合ったぼくの友達には、もちろん被災した人もいます。

彼ら・彼女らと繋がっている以上、その経験をぼくもしっかりと生かさないといけない・生かしたいという義務感みたいなものを持っていて。

地震の時の初動、防災バッグの用意、避難場所の確認など、地震はいつ起こるかわからないからこそ、事前にできることはしておこうと思っています。

ただ、東京で地震の話になった時や、地震を経験した時、やっぱりちょっと感覚の違いに気付いてしまいます。

昨日も、ビアガーデンという環境が手伝ったこともあるかもしれませんが、地震の最中に「イエーイ!」みたいな声が上がったり、揺れの直後でも店員さんが普通に接客していたりしていて、なんだかモヤっとしてしまいました。

インターン先でも、避難場所はどこかとか、避難バッグはあるかみたいなことを一度聞いたのですが、あんまりわからないや、みたいな反応でした。(今度また確認してみよう)

ぼくの地震に対する感覚と、東京にいる多くの人が持っている感覚は、少しずれている、断絶しているなあと、感じます。

その時に感じるモヤっと感は、寂しさとちょっと近いのかもしれません。

ぼくの大好きな東北・被災地のことが、忘れられつつあるという寂しさ。

同じようにぼくの中でも忘れて行って、風化して行ってしまうのかもしれないという不安。

ぼくは忘れるのが嫌なので、忘れない努力をします。

そのためにもぼくはまた気仙沼へ行くし、まだまだいろんな人を連れて行きたい。

ちょうどおととい、以前一緒に気仙沼に行った友達と「また行こう」と話していたので、遊びに行きますね。

引き続き、末長く、よろしくお願いします。

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