8年にわたる、一生分の恋の話

私が世界で唯一恋して愛しているもの、それが音だ。

音の何が恋に落ちるほど魅力なのか、そんなのわかってたら恋じゃないと思うのだけれど大学1年生で音に一目惚れしてから、私はずっと音に恋している。

これは8年間にわたる、私と音の恋の周りにあった、愛しいもののお話。


1、空気が見える魔法

音は揺れた空気のことなので、本来は目には見えない。でもそんな透明なものをかなり細かく可視化してくれる魔法がある。それが編集ソフトだ。
私はあまりAdobe製品は得意じゃないAvid信者のため、一番好きな音声編集ソフト(DAW)は、8年間の苦楽を共にしたProToolsである。Premiere使いからするとAuditionの方が楽だったり、用途によってはNuendoが最強だったりすることも理解しているのだけれども、まだ音に対して真っ白な時期に音声編集の基礎を覚えるために使ったProToolsが、やっぱり私の一番になる。

ProToolsの好きなところをあげるとキリがなく、この記事が数万字にわたってしまうので割愛するが、そもそもDAWの何が好きって、空気の揺れをマイクが感じ、マイク内部で発生した物理信号がデジタル信号に変わり、様々なケーブルや回路を通っていろんな処理を経て、それが連続的な一本の線になって画面上に表現されるところだ。
日常生活では絶対に目に見えないものが、目の前にリアルタイムで出現する。しかも映像編集と違って、目でも耳でも音を感じられるのだ。2種類も音を認識する方法があるなんて、これはとんでもないことだと私は考えている。

DAWは紛れもなく、現代最高の魔法である。


2、声の波形

前述したように、リアルタイムで音の波形が出現するのが好きだ。中でも、声優さんやナレーターさんの声が出来上がっていくのを見るのが大好きなので、ずっとアフレコブースで録られた声を触る仕事を選んできた。

アフレコブースで録れる音の波形は、その演者の発した声の高さ、大きさ、音色を全て一本の線で表したものなので、当たり前だけれど絶対に同じものは生まれない。聴いているだけでは同じに感じるものでも実は確実に違うものである、と目の前で証明されていくのがたまらない。
そしてそのうち波形を見るだけで「この波形はどの言葉か」というのがわかるようになる。本来耳で聴くはずのものを目で見て認識しているという、そのハチャメチャさが好きだ。

なんなら私は「声の波形が出来上がっていくのが好きな変態」という、不名誉にも取れるアイデンティティでアニメの会社と前職の採用を勝ち取っている。音のプロたちがそう判断するほどに、声の波形が好きだ。でもこの手のことを面接で話すと”ヤバい奴”と認定されて落とされる場合もあるので、真似はしない方が良い。


3、音の周りにいる人たち

音に一途だった私の周りには、当たり前だがたくさんの音の人間がいた。私の音の世界には、愛すべきクズ(褒め)が多かった。
音が好きなクズは好きだ。そもそもクズに惹かれてしまう部分が私にはあるのだが、音の仕事をしている人誑しなクズはとても好きだ。愛おしい。ここからはこの8年間で出会った、特に大好きなクズ先輩たちを紹介する。
むしろここからが本題で、ここまでは前置き。おそらくタイトル詐欺。

※私が言う”クズ”は、「自分を好きにさせるのが上手い」「手を出すのが早い」「絶対に相手を好きにならない」の三拍子が揃っている人のことを指します。が、全ての音響関係者がこの通りというわけではありませんので、怒らないでください。あくまで私の周りにいた人々の話です。私の周りにいた人たちは、ほぼこの通りで間違いありません。(先輩方ごめんなさい)


①アニメ時代の直属の上司A

新卒で入社した会社で、私の教育係だった上司A。顔はイケメン、声もイケメン。
この会社はイケメンしかいなかったので、正直なところ早々に辞めたのが悔やまれる。絶対に結婚してはいけないタイプと、絶対に恋人になっても幸せになれないタイプしかいなかったが、全員が全員目の保養になるレベルで顔が整っていた。その点でまずポイントが高い。全員パワハラ気質ではあったが、それが全部チャラになるくらい顔が良かった。
これは私が特殊な訓練を積んでいるだけで、世の中顔がいいからと言ってパワハラセクハラがチャラになるわけがない。世の中の女はそうなのだなと、間違っても混同しないでほしい。

この上司Aもしっかりとパワハラ気質で、しかしながら巧妙な飴と鞭の遣い手だったために、私はしっかり懐柔されていた。今もパワハラだなんだと言う気にならないくらい、この人のことが大好きだ。どうしてもこの人に認めてもらいたくて、最初36時間かかってた仕事を3ヶ月後には6時間で終わらせられるようになった。
イケメン。既婚子持ち。吸ってるたばこはIQOSのレギュラー。

<大好きエピソード1>
入社2週間で初めて大激怒されて大号泣したあと、「でもよくがんばったな。俺は今年の新卒の中でお前が部下になって良かったと思ってるよ」とイケメンな顔で慰めてくれた。この時以上に、男の人からされる頭ポンポンがうれしかったことはない。パワハラ特有のやつとか言うのは一旦ナシで。
ちなみに大激怒されたのは、私がまだ仕事が終わってないのに先輩の許可を得て終電で帰宅したから。だって終電だよ?帰るに決まってる。
「あいつはお前の先輩だけど、お前の指導をしてるのは俺だからな。その辺の指示はちゃんと俺に聞け。俺が帰ってたら電話してこい。俺が寝てそうな時間だったとしても電話してこい。ちゃんと出てやるから」と言ってきて、ヤベェ人だなと思ったが、その後私は深夜でも休日でも電話をすることになる。
この人の怒りを引きずらないところには、何度も救われた。

<大好きエピソード2>
会社で上司たちと飲んで泊まることになり、酔いまくった上司Bが「お前におやすみのハグをしてもらわないと寝られない!」と盛大なセクハラ発言をしてきて私が全力で困っていた時、上司Aが上司Bに「じゃあ俺と寝ようぜ!お前は俺の毛布と寝袋持ってきてくれ!」と言って、私がその場から一旦離れられる口実を作ってくれた。
寝具一式を探して戻ってきた時にはなぜか上司Aもベロベロで、結局私はどちらのことも抱きしめる羽目になった。爆笑。ちょっとだけ上司Aのハグを長くしたら「俺短かった!もう一回!!」と上司Bに言われ、こいつら子供か?と思いながらもう一回ハグして、以下、両上司が飽きるまでエンドレス。
ちなみに、上司Bもイケメンである。特殊な訓練を積んでいる私だし、さらに酔っ払ってもいたので、一周回って楽しかった。
が、これを読んでいる人たちは絶対に真似してはいけない。社会的に死ぬことになるので。

<大好きエピソード3>
上司Aと先輩Cと3人で外仕事をした帰り、飲みに行ったら終電を逃してバーに行くことになった。その前の飲み屋でぽろっと私がこぼした「クリームソーダみたいな甘いお酒が飲みたいです、、、」という言葉を上司Aは覚えていたらしく、バーの店員さんに「クリームソーダみたいなカクテルありますか?」と聞いてくれたのだ。しかもちゃんと私に「まだ酒飲めるか?酒じゃなくても全然いいぞ」と確認を取ってから。最高にうれしかったので、ベロンベロンだったのに私は「お酒がいいです〜」と答えた。この日のクリームソーダみたいなカクテル、最高に美味しかったなぁ。
この後、なぜか3人一緒にタクシーの後部座席に乗って、先輩Cの家に行って雑魚寝した。

完全に余談だが、私はこの会社にいた時、飲み代を支払ったことが一度もない。上司たちの支払いの現場を見たこともない。今も思い出してはびっくりしている。


②アニメ時代の先輩C

上でも出てきた先輩Cは、私にアニメの収録対応を教えてくれた人で、入社2週間で大激怒された時に出てきた先輩もこの人である。先輩も「俺にちゃんと確認を取れ」と上司Aに注意されたらしい。申し訳ない。
私はこの人のことを先輩と言っているが、ポジション的には上司Aと同じであり、なんなら上司たちの若きリーダーだったので本来は上司と表現されるべき立場の人なのだけれど、私にとってはクズな良きお兄ちゃんって感じだったので先輩と呼んでいた。私がたばこを吸うようになったきっかけになった人物である。
高身長イケメン。酔っ払うと、全女性が可愛く見える魔法に自主的にかかる、おちゃめな一面もある。吸ってるたばこはアメスピのゴールド。

<大好きエピソード1>
上司A大激怒事件後、先輩が箱買いして大事にしていたレッドブルを数本差し入れしてくれて「あれは俺が悪かったわ、ごめんな。でも俺は帰って良かったと思うけどね。俺も帰ったし、今日早くから来てんだしさ」と、私が言いたくても言えなかったことを代わりに言葉にしてくれた。本人にそのつもりがあったかどうかは知らない。うれしかったので、私は箱買いしていたリポビタンDを1本あげた。「かったり〜とか思いながら聞いちゃった」と言いながらケラケラ笑っていて、密かに好きが大爆発。
その日のご飯は3食とも先輩が奢ってくれたので、お昼間はお高めのランチを食べた。高価なランチ自体美味しかったけれども、最高のイケメンを見ながら、さらにはそのイケメンのお金で食べる高い肉は過去最強の美味しさだった。仕事中の食事であれ以上に美味しかったものは、未だにない。

<大好きエピソード2>
深夜3時、仕事が二徹目前でようやく終わって、寝るためにアメスピを一人で黙々と吸っているところに、先輩が登場。「お前いつの間にたばこ変えたの?」と聞かれたので「寝る前と普段用で分けてるんですよ」と答えたら、「お前がアメスピ吸うようになったのって、ひょっとして俺がお前にアメスピのおつかい頼んでからじゃね?」と、超自意識過剰なことを言ってきた。
のだが、たばこを吸っている先輩の香りが本当に大好きで、アメスピどころかたばこを吸い始めた理由そのものが先輩の指摘通りだったため、憧れていることがバレると恥ずかしすぎるなと思って「いや!そんなことないです!」と隠したら、「それまでピアニッシモしか吸ってなかっただろ。まあいいや、火忘れたからちょうだい」ってシガーキスされて私は大赤面!!!!
しばらくして冷静さが戻った途端、普通にセクハラやんけ!と爆笑したけど、ああこの人はこうやって数多の女性を落としてきたんだなぁ、と、ぼんやり考えるなどした。

これも余談だが、とんでもないことに、この会社にいる半年間で私はシガーキスが超絶上手になった。なんでこの会社の人たちはあんなにライターを忘れ、失くし、こちらがライターを差し出すよりも早く顔を近付けるのが上手いのか。永遠の疑問。
これも簡単に人にやっていいことじゃないからね。私が特殊な訓練積んでいて、且つ、大好きな人たちだったから許せただけなので、本来は絶対にダメ。

<大好きエピソード3>
会社を辞めると電話をした時のこと。悔しくて、申し訳なくて、電話口で大号泣してしまった私に大爆笑した先輩。「泣くなよ〜wwwww」と先輩はずっと笑ってたのだけれど、「今や、お前は俺より細かい音が聴けるようになってるし、この半年で誰よりも成長したと思ってるよ。またいつでも遊びに来いな、その時は一緒にたばこ吸って飯食って話しよう。んで、俺の代わりにノイズ切りして!」と笑って言ってくれた。惚れるわバカ!!
先輩とはたまに、アニメのAパートBパートで分割してノイズ切り対決をすることがあったのだ。「俺もうこれ以上ノイズわかんないんだけど、上司Aさんはもっと聴こえてんだよね?嘘だろ〜絶対!もうねぇもん!」と先輩が言うので、「私も聴こえないし、いつも上司Aさんに『ここにまだノイズあんだろ!』てキレらるけど釈然としません」と同調したら、「いや、お前は俺より耳が11歳も若いんだから聴こえてなきゃダメ」って手のひらを返されて、二人で大爆笑したこともあった。

「先輩、絶対に私のこと忘れてる」に1万票。


③前職時代の外部ミキサーD

通称、パ◯ンカス。由来は、独身時代パチンコに随分と時間もお金もつぎ込んでいて、やめた今でも一番好きな効果音は”パチンコ玉がジャラジャラ鳴る音”であることから。
この人はとてもやさしい人で、またもやイケメン。私がイケメン好きでそういう人ばかり選んでるわけではなく、私の周りの音の人たちがイケメン揃いだっただけである。

ちなみにネットや機械に疎く、大好きなサッカーを見るためにDAZNに入会した際は、全部奥さんに登録・設定してもらったらしい。自宅に音声編集の作業環境を作るのも大変苦労したとのこと。機械が苦手と言うだけあって、この人のProToolsセッション(プロジェクトのこと)はかなりシンプルで、初見で作業しなきゃいけない私にとっては神だった。
イケメン。既婚子持ち。吸ってるたばこはWinstonのスパークリングメンソール8。

<大好きエピソード1>
とにかくアシスタントにはやさしく気を遣ってくれる人で、大量の待ち時間全てを会話に使ってくれた。
その当時、Dさんは2クールに渡って放送されていた人気ドラマにはまっており、そのあらすじを3時間かけて放送分まで全部話してくれた。そのあと推理合戦をしたのだけれど、「そう思うじゃん!でもね、でもね!」と言いながら話す人で、これがとてつもなくかわいいのだ。
二度目ましての時、「『スパイダーバース』をさ、何にも登録しないで見られる方法ってあるかな?」と聞かれて「TSUTAYAに入るまで待てば観られると思いますよ」と答えたら、「今観たいんだよね〜やっぱりAmazon Prime入らなきゃダメかなぁ?」と困り顔で言うので、「奥さん登録されてないんですか?」と聞いたところ「奥さんは入ってる。でも俺は入ってないから使えなくない?」なんてかわいいことを言ってた。
「奥さん名義あるなら、それで観られるじゃないですか!Fire TV買ったらテレビで観られますよ」って教えたのだけれど、そこからはおじいちゃんにスマホの使い方を教えてあげるような、レクチャーの時間になった。

本当にバリバリ機材を使うミキサーという仕事をやってる人なのか?と疑いたくなるような機械音痴エピソードがたくさんあるのだけれど、本人曰く「音の仕事は触るものが決まってるからできる」とのこと。理屈がわからんが最強にかわいい。

<大好きエピソード2>
パチンコ玉の音と小銭の音、どちらの方が好きかという話をしたことがあった。パチンコ玉派はDさんのみ、小銭派は私と効果屋さん。音屋はよくこういう話を暇つぶしにするのだ。その後、パチンコ玉の音は耳に刺さるとか、小銭の音はちょっと鈍すぎるとか、完全に本人の好みでしかないことでヒートアップしかけたとき、ふと「俺、競馬の歓声も好きだわ。しかも、客席じゃなくて真ん中で聴く歓声」って突然別の賭け事にはまってる事実を暴露してきて、好きだったのが大好きになった。競馬までハマってるのかよ。
今は競馬場もいろんな試みをしていて、コースの中の芝生のところで子供が遊べたりするらしく、そこで子供を遊ばせながら自分は歓声のスイートスポット(音がぴったり集まる一点)を探すのが好きらしい。「最強に音変態で最高ですね」と言ったら、「気持ちがいいし、つきのちゃんは絶対に好きだと思うわ。ぜひ聴きにいってみて」とオススメされた。いつか行ってみたい。

<大好きエピソード3>
私が前の職場を辞めるとき、「つきのちゃんに会えるのが毎回楽しみだったのに〜!」と言ってくれて、たとえそれがどんなに社交辞令だったとしても、”アシスタントミキサー”というあまり人の印象に残らない、いてもいなくても最悪変わらない存在の私に、そんな言葉をかけてくれたのがかなりうれしかった。
退職メールへの返信の末尾に「これからもよろしく」って書いてあったのもだいぶしあわせだったので、この状況が収束したら飲みに行きませんかって連絡したい。

Dさんと初めて仕事をした日から、それまでは苦手だった外部ミキサーさんとの仕事が好きになったので、実は一番の恩人だと思っている。


④そのほかお世話になった音の人たち

ここで話題にするにはエピソードが弱いけれども、アニメ時代のミキサーさんは全員しっかりクズだったし、前職時代の外部ミキサーさんたちもほとんどが愛すべきクズだった。しかもほぼ全員イケメンだし。
この手のクズは、恋愛感情さえ抱かなければ最高の飴を降らせてくれるのだ。後輩や部下である私ともかなり仲良くしてくれたので、感謝感激雨霰。

ただ、全員下ネタの量と質がえぐい。質は高い方でえぐい。特にアニメ時代、私は上司と先輩全員の風俗事情を把握していた。どういうことだよ。知りたくないのに知らされていたのはさすがに笑うが、これも訓練済みだから許容できただけである。他の人は絶対にしてはいけない。

一日も早く、スタジオのアシスタントたちが、わけのわからないセクハラから解放される日が訪れますように。


4、等価交換で得た最強の聴覚

私は聴覚以外がポンコツだ。昔はそんなことなかったのだけれど、人よりも聴ける音を増やす訓練をしていたら、五感の残りが退化した。その分、聴覚の発達はすごかった(ということにしている)。

まず失ったのは味覚。どんなものでも食べられるバカ舌になったし、何なら大学2年生の秋くらいから社会人2年目までは、味そのものがいまいちわからなくなっていた。味がわからなくなるにつれて、聴こえる音が増えてる気がした。
本当のところどうだったのかは、神のみぞ知る。

次に嗅覚。味覚が先か嗅覚が先かなんて、食における「鶏が先か、卵が先か」なお話だけれども、私の感覚的には嗅覚は後だった。
実際鼻があまり利かなくてもそれほど不便はないので、特に問題はない。

そのあとに視覚。もともと目は悪くて分厚い眼鏡がないと生活できないのだけれど、社会人になってからそれまで以上のペースで視力が落ちた。が、聴こえる音はもちろん増えた。気がする。
なんちゃって、おそらく一日中PCしか見ていないからだと思う。

最後に触覚。気がついたら知らん痣が増えてる。ひとつもできた時に気づけないし、なんなら心当たりもない。

なお、音の仕事をやめてからこの数ヶ月、少しずつ聴覚が普通レベルに戻るのと同時進行で、他の感覚も戻りつつある。


5、愛しの閉鎖空間

音の仕事は、窓がない部屋で行われることがほとんどだ。私が仕事したスタジオは全て、窓がなかった。有名な某スタジオは天井に空の壁紙が貼ってある。この発想、最高にクレイジーで大好きだ。

部屋の扉は防音扉なので、ガチャリと閉めると空気の音しかしなくなる。音を聞く部屋なので、大きい音が出るPC本体などは部屋の中にはなく、ただひたすらに空気の音と、スピーカーから発せられる微かな電子音しか聴こえない。
この無音のようで無音じゃない空間が大好きだった。熟睡するにはもってこいの部屋だ。秒で寝付ける。

たまに「この部屋にいると平衡感覚がおかしくなるのか、グラグラする」という人がいるが、ぜひ耳を鍛えていただきたい。そうすればあの部屋が天国に思えるはずだから。

私はよくミキサーさんの様子を伺うアシスタントで、且つ、アイコンタクト大好きマンだったので、大好きなミキサーさんたちの真剣な横顔を見られるアシスタント席こそ特等席だった。会社によってはミキサーより少し後ろに席があるスタジオもあるらしいのだけれど、私が入った会社は全て真横だった。最強の配置。
集中している人というのはかなり顔に感情が出ているので、そこから読み取れることがたくさんあるのだ。

アシスタントは、自分の調子がよい上で慣れたミキサーが相手だと、何の指示も得なくてもミキサーが求めていることが手に取るようにわかり、先回りしてDAWの操作ができることがある。
私が大好きなミキサーさんたちは、私がこれをうまくできるとものすごく素敵な笑顔を向けてくれる人たちだった。お客さんがいるし、収録の最中だから言葉を発せられることはないのだけれど、ニカッと笑ってくれる。それまでにどんなに苦しいことがあったとしても、その一瞬で全ての苦悩が吹き飛ぶのだ。大げさではなく、本当に。それが私は大好きで、その瞬間のために頑張っていたと言っても過言ではない。
だって、秘密の関係みたいではないか。その場にいる、二人だけがこっそり交わす無言の言葉。「話せなくてもお前の言いたいことわかるぞ」「直接指示出されなくてもあなたの言いたいことわかります」って雰囲気だけで会話する感じ。
ミキサーとアシスタントで付き合って結婚までする人たちがわりといるのだが、私はこれこそがそこまで発展する要因なのではないかと思っている。私は恋愛感情を持ち合わせていないので、そんなことにはならなかったけれども。

ちなみにこれも、それなりの信頼関係が結べてない状態で簡単にやっていいことではない。下手すると勘違い上司と生意気部下になってしまうし、そもそも言葉での意思疎通が成り立っていないとうまくいかないので、会話があってこそだということを忘れてはいけない。雰囲気で会話できる時なんて実際のところ、お互いにゾーンに入れた時だけだから。会話大事。



これまでに列挙した愛おしい環境があって、私はこの8年間、音へ恋し続けてきた。音によって世界を広げてきた。
もう辞めてしまっている人間が言っても説得力に欠けるけれども、音は私に広い視野と細かい視点の両方を持つことを教えてくれた。それを知れただけでも、音を好きになってよかったと、心の底から思っている。

先日、まだ季節の変化を耳で捉えられたことにホッとした。本当にうれしかった。できることなら今すぐにでもこの聴覚の減衰を食い止めたいのだけれど、現役の時と今では耳の使い方が全く違うので、なかなか難しそうだ。
悲しいけれど、仕方がない。


これから先、たとえ凡庸な耳に戻っても、トラウマがあるままでも、ずっとずっと、音が好きだ。

この世界の全てのものの中で一番、そして一生、音を愛している。




たのしく生きます