六十五話「タヌキのしっぽ」
K老人がまだ幼かったときのこと。
近所の神社に向かう途中にある、山道の入り口に大きな岩があった。
岩自体はなにも変わらない。いつも通り静かに佇んでいる。
ただ、その下部にある僅かな隙間からしっぽが伸びていた。
「まんまアレだよ。おとぎ話の絵本とかに描かれる、あのタヌキのしっぽみたいな」
説明するには一番それが近かったそうだが、実際のそれは、黒々として、艶のある細かい毛が広がっていて、見るからにふわふわとしていた。
そして、なによりも大きかった。
大人の背丈ほどのものが入道雲のように岩影から伸びていた。
それこそ、質感からしてまさに黒い雲や煙のようだったという。
どこからともなく掠めてきたそよ風に合わせ、目の前の黒い雲がそよそよと揺れる。黒い毛の一本一本が、麦畑のように揺らいで輝いていた。
そして、風が止んだあと、そいつは何度か心地よさそうに先っぽをくねらせていた。
K氏は、そんなものを観察しているうちに、無性にその毛並みをこの手で確かめたくなった。
しっぽの主の機嫌を損なわぬよう、そっと近づいてから、その側面へと割れ物にでも触れるかのごとく片手を添えた。
途端、静電気を数段強くした衝撃が手のひら全体に走った。
あまりのことにK氏は飛び退き、転げ回った。
その後、無数の細かな棘が貼りついた感覚がいまだに残る手を何度も叩いて振り回した。だが、手は赤くなるだけで何の形跡もない。その表面には、不快感だけがまとわりついていた。
涙を振り払って後ろを見上げると、棲みきった青空といつも通りの山々を背に、あの岩だけがぽつんと佇んでいた。
「いま思えば、あれは狸だとか狐だとか、そんな獣のしっぽやなかろうて」
「つまりは、しっぽやのうて、山ん主だとかの腕だったんやろう。ほれ、ワシの手のひらぶん、魂をかすめ取られたまんまやね」
K老人はそういうと、幼少時から麻痺があって不便な利き手をぷるぷると震わせた。
「もしかすると、腕ですらなくて、山ん主の指だったんかもなあ・・・」
話終えて、からからと笑い声をあげたご老体は、そのまま地酒が注がれた杯を痺れるのとは逆の手で持つと、美味しそうにくいと飲み干した。
※画像はお絵描きばりぐっどくんより。