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3.11が私に教えてくれたこと

2011年3月11日は私にとっては人生のターニングポイントといっても過言ではない。


2011年3月10日(木)の夜、九州から長男が東京に遊びに来た。
その夜は、二人で銀座のテーブルマジックが楽しめるイタリアンレストランで楽しんだ。

翌日、私は会社出勤。
長男は一人で洋服探し等の東京探索。
夕食で合流予定だった。


3月11日(金)14時46分事態は一変した。



今までに経験したことがない大きな地震だ。

大きな揺れの中、私はデスクの下に身を隠しながら、恐怖と不安の中で

「今どこだ!」と長男にメールした。

揺れがおさまった頃に

「秋葉原。ヤバいね!」
と長男から返信があった。

「安全な場所にいろ!後で迎えに行く!」
とメールしたが返信はなかった。

通信回線パンクしたのか?

スクリーンショット (606)

この当時の会社での私の仕事は、身から出た錆なのだが、やりがいのある仕事は全く与えられず、月に1週間程度で終わる厚生労働省への申請書類のチェック作業だけだった。

今後の対応について管理職陣はミーティングのようで、会議室を出たり入ったりして慌てていたが、私は就業終了時間とともに会社を飛び出し、秋葉原へ向かって歩きだした。


多くの窓ガラスが割れて道路に散らばっている。
そこをスーツ姿で歩いて帰宅している人の群れ。

事の重大さを認識しながら長男を捜索した。

歩いて帰宅している人々の列の中で、やっと長男から

「わかった!秋葉原駅近くにいる」
というメールが届いた。

多くの人の携帯電話からの【けたたましい地震警報着信音】が鳴り響く状況下で、長男の姿を発見した。

「よかった。無事で」
「ヤバかったね。車がダンスしてたよ。」


上野駅付近で開いてる食堂で腹ごしらえしてマンションに向かった。

部屋の中は、CDや雑誌は散乱しグチャグチャ状態。

なんとか寝床を確保し、一息ついた時に、TVから津波や各地の被害状況の映像に被せて、山下達郎の歌が聴こえてきた。


♪ 凍りついた夜には ささやかな愛の歌を 吹きすさんだ風に怯え くじけそうな心へと 泣かないでこの道は 未来へと続いている ♪

♪ 憧れや名誉はいらない 華やかな夢も欲しくない 生き続ける事の意味 それだけを待ち望んでいたい ♪


黙ってTV見つめる二人、、、涙を流していた。



3月13日(日)の昼過ぎに長男は九州に帰っていった。

空港まで見送りに行った後、自分のマンションに戻ってTVを観ながら

「自分に何かできることはないだろうか?」
「何か手伝えることはないだろうか?」


と漠然と思っていた。


3月14日(月)

職場な普段とは違うムードだった。
仙台の事務センターからの物流が途絶えたという致命的問題から、お客様からオーダーされたガイドブック等の帳票類発送に全く対応できない状態になっていた。

11時ごろだっただろうか、M課長代理とS課長が話し合って作成した物流対策の説明があった。

一生懸命考えたのだろが、所謂“机上の空論”で複雑な業務フローだ。

従来の方法をベースにした対応策なので、全く人手が足りないことが考慮されていないのだ。

M課長代理に改善策を提案しても聞き入れてもらえない。
結果として、全くお客様からの帳票発送オーダー依頼に対応できない状態に陥っていった。

3月17日(木)の夕方、次長が私のところにやってきた。

次長
「M課長代理のやり方では対応できません。土日に管理職全員出社して発送作業をするので相談に乗ってください。」
小生
「え?私でよければ、喜んでお手伝いします。」
次長
「来週からこの帳票発送業務のリーダーをお願いします。M課長代理には後程話をしようと思っています。」
小生
「私でよければ」
次長
「M課長代理は精神的にも無理です。来週からお願いします。」
「それとM課長代理に変わって、土曜日に救援物資の仕分け&トラック積込作業に行って頂けませんか?」
小生
「喜んで行かせて頂きます。」


3月19日(土)


各地から送られてくる救援物資を種類ごとに仕分けし、ダンボールに詰め、トラックに積み込む作業に参加した。

自棄になりながら、やる気もなく過ごしていた時期だったので

「被災地の人は、もっと大変なんだ。俺は何やってんだ。」

「俺は自分だけが厳しい環境にいて苦労してると思ってるクソ野郎だ」

と真剣に思い懸命に作業した。


作業終了後、いつもの“煮込み屋”で

「少しは人の役に立つことができた」

と自己満足しながらビールを飲んだ。
そこで、決意した。

「自分にも何かできることが絶対にある。今与えられた仕事・役割で最高のパフォーマンスを行うことだ」

3月22日(火)


次長が部長に働きかけ、緊急対応策としてガイドブックをコピーして送付するという決断をした。

部長が私のところにやってきて

「明日から会議室と臨時のパートの女性数名を手配した。やり方は考えてやれ!」

と告げて、肩をポンと叩いた。


前例もないし、当然マニュアルもない。

段ボールダストにまみれた会議室で【クシャミ・鼻水&涙まみれ】の状態で、【キンコーズでのコピー】と【帳票詰込み~発送へのフロー作り】そして【パート女性との動線見直ミーティング】といった手探りだらけの突貫作業の毎日がスタートした。

当時の自分は『がむしゃら』という言葉がピッタリで充実して、生き生きしていた気がする。


仙台事務センターの復旧が進み、1か月後に、この突貫作業は終了した。


会議室の片づけをして掃除して会議室の鍵を管理事務所に返却した。

翌週から従来の業務に戻ることになる。

その夜は、行きつけの“煮込み屋”で一人打ち上げを行った。

金曜日ということで店内は満席状態であったが、いつものようにカウンターの一番端の席、お気に入りの【もつ煮込み】をアテに【瓶ビール】を飲んでいる時に、BGMが私に優しく語りかけてきた。

自己満足に過ぎないが「少しは人の役に立ったのでは?」と思い、自然に涙が流れていた。

♪~こんな僕でもやれることがある~♪


2015年3月14日(土)


私はレンタカーで南三陸付近を訪ねた。

「復興というにはまだまだ遠い状態だ」

“東三陸さんさん商店街”
に行き被災地の方々が端切れ作ったミサンガとお人形を買った。

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3.11が私に様々なことを教えてくれた。

クライシスマネジメントを真剣に勉強を始めた。

驕り高ぶった言動、思いやりの気持もなく偉そうに生きてきた自分に
「こんな馬鹿な俺にも人のために何かできることがある」


2015年3月28日(土)

3年間の事務センター出向生活(最後の1年間は仙台勤務)を終えて大阪に旅立った。

この日、私は次の勤務地を最後にして、この会社を辞める決意をしていた。

自分にも人の為に何かできること
絶対にあるはずだ。


2021年3月11日で東日本大震災から10年を迎える。

改めてこの震災でお亡くなりになった方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された皆さまに心よりお見舞いを申し上げます。



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