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R&Bとソウル・ミュージック⑪メンフィス・ソウルの人的交流とFAME
テネシー州メンフィス
かつては南部の物流の拠点で、黒人音楽史においては絶対に欠かせない街
歓楽街ビール・ストリートは南部各地からミュージシャンが集う通り
メンフィス周辺のミュージシャンや音楽関係者は交流があり、特にメンフィスとアラバマ州マッスル・ショールズとは強い結びつきがあった。
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サム・フィリップス(Sam Phillips)
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1950年代のロックンロールの登場の一躍を担った人物
メンフィスにあるサン・スタジオおよびサン・レコードの創立者として最もよく知られていて、ハウリン・ウルフ、カール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイス、ジョニー・キャッシュなどを発掘。
最大の功績は、1954年にエルヴィス・プレスリーを発掘したこと。
1969年、フィリップスはサンを売却。ホテル・チェーンのホリデイ・インの初期の投資家でもあった。
人種差別撤廃を支持し、音楽業界での人種の壁の撤廃に尽力。
50年代は、サンが中心となってメンフィスでは多くのレコーディングが行われた。
クイントン・クランチ(Quinton Claunch)
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1921年12月3日 – 2021年4月10日:ミシシッピ州ティショミンゴで生まれ1940年代初頭にアラバマ州マッスルショールズに移住。
1948年に結婚した後、クランチはテネシー州メンフィスに移り、そこで旧友で元WLAYディスクジョッキーのサム・フィリップスと再会
クランチはカール・パーキンス、チャーリー・フェザーズ、ワンダ・ジャクソンらによるサンの初期のレコーディングでギターを演奏し、またハードウェア会社を設立
ハイ・レコード(Hi Records)
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1957年:サム・フィリップスのサン・スタジオに出入りしていた3人の元ミュージシャン(レイ・ハリス、ビル・カントレル、クイントン・クランチ)、レコード店オーナー:ジョー・クオギと彼の弁護士によって設立されたレーベル。初代社長はビル・カントレルでしたが、間のなくジョー・クオギが社長になった。
クオギはメンフィスで最も大きなレコード店(ポプラ―・チェーンズ)を持っていて、ジュークボックスのレコードを供給するオペレーターとしては、テネシー州南西をカヴァ―する有力者
60年代後半から70年代にかけてウィリー・ミッチェルのプロデュースによって、アル・グリーンなどのアーティストによる『メンフィス・ソウルの粋』とも呼べる数々の名作がリリースされます。
1959年ハイ・レコードの最初の大ヒット『Smokie (Part 2) by Bill Black’s Combo(Billは元エルヴィス・プレスリーのバックバンドのベーシスト)』
このシングルがリリースされた頃には、クイントン・クランチは、Hi Recordsを辞めていてマッスル・ショールズのフェイム・スタジオ(FAME Studios)のリック・ホールと親交を深めていました。
リック・ホール(Rick Hall)
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「マッスル・ショールズ・ミュージックの父」として、彼はカントリー・ミュージックとソウル・ミュージックの両方の録音と促進に影響力を持ち、アレサ・フランクリン、オーティス・レディング、デュアン・オールマン、エタ・ジェイムズなどのミュージシャンのキャリア開発に貢献
1959年、レコーディングスタジオのオーナーであるトム・スタッフォードから音楽出版社設立を手伝ってほしいと依頼があり、FAME(フローレンス・アラバマ・ミュージック・エンタープライズ)と名付け、ドラッグストアの上にスタジオをオープン
フェイム・スタジオ(FAME Studios)
FAME は規模が小さく、アメリカの音楽業界の主要な録音場所からは離れていましたが、多くのヒット レコードを生み出し、マッスル ショールズ サウンドとして知られるようになっていきます。たサウンドに貢献
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FAMEからの最初のヒット曲『Steal Away』 by Jimmy Hughes
1963年に録音された『Steal Away』は、どこのレコード会社も興味を示さなかったので、ホールとダン・ペン(Dan Penn)は車にレコードと酒を積んで、各地に赴いてレコードを売り歩いた結果、ヴィージェイ・レコードが関心を示して配給を引き受けたので、1964年にヒットに結びつきました。
ダン・ペン(Dan Penn)
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FAMEスタジオの常連で、パフォーマー、ソングライター、プロデューサーとして活躍した人物。後にチップス・モーマン(Chips Moman)との『The Dark End of the Streets』『Do Right Woman, Do Right Man』、スプーナー・オールダム(Spooner Oldham)との『Cry Like a Baby』などの1960年代の多くのソウル・ヒット曲を共作
リック・ホールのFAMEスタジオの操業とStax Recordsの成功に触発されたクイントン・クランチは、レコード・ビジネスをスタートします。
Goldwax Records
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クイントン・クランチは、リリックス(The Lyrics)というグループをFAMEスタジオに連れていき「Darling」のレコーディングを行います。
1964年『Darling』が最初のシングルとしてGOLDWAX Recordsがスタートしました。
『Darling』はメンフィスでヒット。
ゴスペル・ベースのソウル・サウンド市場が、中南部地区には存在していることが証明されました。
しかし、メンフィスの名だたるアーティストは、既にStaxが押さえていましたので、クイントン・クランチには『新しい人材の発掘』(※)
が急務だったのです。
(※)GOLDWAXに関わる『新しい人材の発掘』については次号以降で詳しく書きたいと考えています。
When a Man Loves a Woman
1966年春に1枚のシングルの大ヒットによって、マッスル・ショールズの名が世界中に知れ渡りました。
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ジミー・ヒューズの従兄弟のパーシー・スレッジ(Percy Sledge)が歌う
クィン・アイヴィー(Quin Ivy)
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1965 年にクインビー レコーディング スタジオをオープン
そこでパーシー・スレッジのシングル「When a Man Loves a Woman」をプロデュース。Quinvy レーベルと South Camp レーベルを設立。
1970 年代に音楽業界から離れ、ミシシッピ大学でMBA の学位して、退職するまで北アラバマ大学で会計学を教えました。
クィン・アイヴィーは、リック・ホールに電話で相談。
その時、たまたまクイントン・クランチがリックの家に来ていて、3人はクィンのスタジオに集合してテープを聴いた。
「アトランティックのジェリー・ウェクスラーと親しいので掛け合ってみるので、テープを預からさせてくれ」(by リック・ホール)
実のところリックは、一度ジェリーと電話で話したことがあるだけで、アトランティック南部担当A&Rのジョー・ガルキン(※)がジェリーと折衝(※)ジョー・ガルキンはジェリー・ガルキンにソロモン・バークでヒットした楽曲「Just Out Of Reach」を紹介した人物
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即刻、ジェリーはクィンに電話をして契約を進めることにした。
この後、ジェリー・ウェクスラーは、アトランティック契約を結んだ当初のスタックスのジム・スチュアートがそうだったように、レコード・ビジネスの複雑な点(印税率・出版権・保証契約)についてほどんどなにも知らない男(クィン)に対して自ら望むものを要求した。彼の典型的なやり口
<面白い話>
ウィンは、ウェクスラーから「全額費用はもつので再録をしてくれ」依頼されたので、メンフィス・ホーンズもスタックから呼び寄せてレコーディングした。しかし、初めての経験でもありテープの編集作業も混乱した。
「When a Man Loves a Woman」は大ヒット
ジェリー「どうだい、録り直してよかっただろう」
ウィン 「あれはオリジナルのやつです。ホーンの音が外れる最初のです」
ジェリー・ウェクスラーがウィルソン・ピケットを連れてリック・ホールのFame music studioを訪れてレコーディングを行うのは、「When a Man Loves a Woman」の爆発的なヒットの1か月後のこと。
ウイルソン・ピケットの強烈な個性で、スタックスのメンバーとは大揉めになったこともあり、スタックスのスタジオでは録音できないという事情もあったのでしょう。
この頃には、「アトランティックの身売り話」が本格的に進行していたのではないかと想像できます。
このジュリー(アトランティック)の動きは、リック・ホール(FAMEそしてマッスル・ショールズ・サウンド)の名を世間に知らしめることになり、アレサ・フランクリンのレコーディングへと繋がっていきました。
「要するに、黒人連中が正しい道を教えてくれるまで、おれたちは何もしらなかったんだ。もしも一生白人の音楽だけを聴き続けていたら、おれは何も学べなかったと思う」(ダン・ペン曰く)
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