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What's Stax ? Why Stax Now ? ⑦偉大人物の死とゼロ・スタートへの決断

“Dock of the Bay”再録の3日後

1967年12月9日
オーティス・レディングとバンドメンバー(The Bar-Keys)は、TV番組「Upbeat」出演しました。
「Respect」を歌い、ミッチ・ライダー(Mitch Ryder)とエディ・フロイドの作品「Knock On Wood」をデュエットします。

その後、「Leo's Casino(ナイトクラブ)」で3回のステージを行いました。

12月10日(日曜日)
彼らはウィスコンシン大学近くの「Factory nightclub」でのライブに向けて、大雨とキリで警報発令中にも関わらず、オーティス所有の飛行機『ビーチクラフトH18』で、オハイオ州クリーブランドからウィスコンシン州マディソンに向けて離陸します。

Otis Redding is killed in a plane crash

目的地(Dane County Regional Airport)から4マイル (6.5 km) のところで、パイロットのリチャード・フレイザーは無線で着陸の許可を求めた直後、飛行機はMonona湖に墜落しました。

この飛行機事故で、オーティス・レディングとバーケイズのメンバー4人(ギタリストのジミー・キング、テナーサックス奏者のファロン・ジョーンズ、オルガン奏者のロニー・コールドウェル、ドラマーのカール・カニンガム)とマシュー・ケリーとパイロット(リチャード・フレイザー)の7人が命を落とします。
(トランペッターのベン・コーリーは唯一の生存者でした。)

オーティスの遺体は翌日、湖探索で発見されます。

遺族はメーコンの市公会堂での葬儀を、より多くの人が参列できるよう12月15日から12月18日に延期。葬儀には4,500人以上が参列し、3,000席のホールが溢れかえりました。

Martin Luther King,Jr. is assassineted in Memphis

1968年4月4日
メンフィスの人種的緊張は頂点に達します。
スタックスの従業員(黒人も白人も含めた)が定期的に集まる場所であった「ロレーヌ・モーテル」で、キング牧師が射殺されたのです。

多くの指導者が沈静化を呼びかけたにもかかわらず、全国的な暴動の波が100以上の都市で発生しました。

4月5日
最初の追悼式が「R. S. Lewis Funeral Home」でおこなわれました。

R. S. Lewis Funeral Home

4月8日
キング牧師の未亡人コレッタ・スコット・キングと4人の幼い子供たちが、キング牧師を讃え、同市の黒人衛生労働者の大義を支援するために、推定4万人の群衆を率いてメンフィスの街を静かに行進しました。

Coretta Scott King at the funeral of Martin Luther King at Ebenezer Baptist Church, comforting their 5-year-old daughter, Bernice. This photograph won the 1968 Pulitzer Prize for Feature Photography.

4月9日
2回目の葬儀がジョージア州アトランタで行われました。

Funeral wagon at the Martin Luther King Jr. National Historic Site in Atlanta

ジム・スチュアート曰く

「どすんと楔を打ち込まれたような感じだね。少なくとも、社内にあった人々の疑念があれで外にさらけ出されたのは間違いない。結束を固くして、一緒に仕事を続けようと努力はしたが、あれ以降、会社は大きく変わってしまった。協力して作り上げるという楽しい気分はもうなかった。何かが失われてしまった。それが何なのか、はっきりとは言えない。でも、変わったのは間違いないし、もう二度と戻れないというのもわかる。そういう感じだったよ。みんな自分の殼に閉じこもるようになってね、昔のようにオープンじゃなくなって、人と人との距離も遠くなった(略)」

アル・ベル曰く

「あれで、スタックスの人間も、社内での人種の違いに敏感になった。あの時点までは、それほど強くは意識していなかったと思う。キング牧師の死によって、スタックスは甚大な衝撃を受けたんだ。うちは黒人コミュニティの真ん中に位置していた。人種差別撤廃が大きな問題となっている街の中にありながら、人種が融合している企業だった。でもキング牧師の死をきっかけに、あのコミュニティに暮らす(一部の)アフリカ系アメリカ人たちが、スタックスで慟く白人に対して否定的な行動を取り始めたんだよ」



「ロレーヌ・モーテル」は、スティーブ・クロッパーとエディ・フロイドが「Knock On Wood」を書いた場所です。


アトランティック・レコードとの契約を解除


スタックスは当初、ワーナー買収にアトランティック社に参加することを希望しており、ジム・スチュワート、エステル・アクストン、アル・ベルはワーナーと直接交渉でニューヨークに飛びました。

しかし、ジムにとっては、提示された数字は「侮辱」だったのです。

ジムは、スタックスのマスターの返還を求めましたが、ワーナーの重役たちは、1965年の配給取り決め正式契約書にある「所有権条項(複製権を含むすべての権利、所有権、利益を全て与える)」を引用して拒否します。

スタックスに「レンタル」されていたサムとデイブの管理もワーナーが引き継ぎます。

1968年5月13日
この事態の展開の結果、ジムはアトランティックとの配給契約を更新せずにG&W(Gulf and Western Industries)傘下パラマント・ピクチャーズ(Paramount Pictures)にスタックスを売却します。


【内部分裂】

ジム・スチュワートは会社に残りますが、スタックスの日常業務にあまり積極的でなくなり、アル・ベルが副社長兼共同所有者となり、より積極的な役割を担うことになっていきました。

エステル・アクストンは、ベルの会社に対するビジョンに同意せず、ジムはアル・ベルを選ぶか?エステルを選ぶか?の選択を迫られ、エステルに辞任を求めました。

スティーブ・クロッパー曰く

「彼女があそこの中心、みんなの心の拠り所だったんだ。間違いないよ。誰よりもたくさんアイデアを持っていたし、黒人コミュニティのことも、誰よりもよく理解していたんだ」

新生 Stax/Volt のリリースでは、レコード販売会社間の混乱を避けるために、新しいラベル デザイン、新しいロゴ (認識可能な指スナップ ロゴを含む)および新しいカタログ番号付けシステムが使用されました。

ゼロからのスタート


オーティス・レディングという偉大なるスターを失い、サム&デイヴもいなくなり、創造者の一人であるエステル・アクストンが去っていったインディペンデント レーベル「スタックス」にとって何が必要なのか?

アル・ベルは

「曲がなければ、レーベルはディストリビューターとの関係を失う」

レーベルを立ち直らせるという目標に向かって、スタックスの全アーティストおよびクリエイティブスタッフにも新曲のレコーディングを命じ、8 か月で 30 枚のシングルと 27 枚のアルバムをリリースします。


アイザック・ヘイズ「Hot Buttered Soul」

1968年のソロ・デビュー・アルバム『Presenting Isaac Hayes』はヒットしなかったので、ヘイズは裏方の役割に戻ろうとしていました。
その矢先にアル・ベルから新アルバム作成指示が出ます。

結果的に『Hot Buttered Soul』は100万枚突破の大ヒット

おれのわがままを通した作品だった(略)ああいうのをやりたかったんだ。アルからは『好きなようにやっていい』と言われていたしね。売れなくても、ちっとも構わなかった。儲かろうが儲かるまいが、そんなことはどうでもいい。真の芸術を追求するつもりだった。(略)なにしろ、他に26枚もアルバムがあったんだから。(略)狙っていたのは黒人層だ。黒人の間で<恋はフェニックス>はほとんど知られていなかったからな。だからあれを解体してアレンジし直した。黒人にも身近に感じられるようなものに変えたんだ。(略)それが、出してみたら大当たりして、もっと広い層にまで浸透したというわけなんだ。過激な作品に思えるのは、それまでのスタックスのイメージと何から何まで正反対だったからさ。


ジョニー・テイラー「Who's Making Love」


1966年、テイラーはスタックスに移籍してきて「ソウルの哲学者」と呼ばれていました。ブッカー・T.ジョーンズ&MG'と一緒にレコーディングした「I Had a Dream」「I've Got to Love Somebody's Baby」(どちらもアイザック・ヘイズ&デヴィッド・ポーターの作品)でヒット。

そしてゼロスタートのスタックを勢いづかせる「Who's Making Love」が100万枚超の大ヒット(ゴールドディスク獲得)


スタックの大きな変化


インディペンデント・レーベルとしての成功は、従業員のハンドブック、スケジュールなどすべてのビジネス感覚で運営される企業になっていきました。
ヒットレコードを生み出していましたが、スタジオはコミュニティセンターというよりも、ビジネスをするオフィスのようになっていきました。


そんな企業化していく空気に嫌気がさして

ブッカー・T.ジョーンズがスタックを辞めます


利益分配制度「ビッグ6」も解体され、MG'sは解散


ジム・スチュアートの「オープンドアポリシー」
アメリカ南部で人種隔離が色濃く根付いていた時代のメンフィスで、あらゆる信条や肌の色を持つアーティストを迎え入れていくという理想

公民権法が制定されたことで 法の上での『ジムクロウ法』は廃止になりましたが、名目だけの平等に不満を高めるだけで、結果的には「人種間の垣根を無くす」より「それぞれの人種コミュニティ強化」となり【人種間分断】を広げていったのかもしれません。

偉大なる人物の死をキッカケとして、スタックス中では家族のような存在だった黒人と白人のアーティストたちの間にも、埋めることができない”亀裂”が広がっていったのです。


続く、、、、、、、、


Why Stax Now?



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