見えぬ自己
キャリア設計を考える上で、いろいろと記事や本を読んできた。その中でも現実主義、理想主義でだいぶ考えが異なることがわかる。
例えば、現実主義でいくと、「戦略コンサルにいけばどこへでもキャリアステップが望める。プログラマー担っておけば、職を失うことはない。ベンチャーキャピタルからスタートアップやベンチャーにいけばリスクを抑えたまま経営者の道を歩むことが出来る」など。
一方で、理想主義の考えでは「自分の好きなことで生活をしていく。副業で成功。趣味で起業。会社にとらわれない生き方」などがある。
現実主義だと、好きなものを後にとっておいて食べる、理想主義だと好きなものを先に食べながら、というような印象を持っている。
一方で別の考え方は、「好きな仕事に就くことを諦める」という考えだ。京セラの稲盛さんの考え方だ。好きなことを仕事に出来る人はほんの少し。だったら、いまやっている目の前の仕事を好きになるように努力しようという考え方だ。人間というものは不思議な生き物で、物事を別の見方をすると180度異なったものとして認識する。
好きではなかったものがやってみて好きになったりとしていくわけだ。この考え方はあまり魅力がないように感じるが、私が好きな著者もこれに似た考え方をしている。
「今自分がやっている仕事は、自分の好きな仕事である」
というのだ。今やっている仕事が合わないと嘆いているなかで、は?という感情を持つのが普通だ。この考え方、理論の背景として、その著者が行動経済学のスペシャリストということがある。人間は無意識のうちに自分が好きなことを行っている。悩みというものは、自分が本当は好きなことなのに対して盲目の状態であるからこそ起こるものだという考え方だ。
確かに好きなことは自然と行っているのが普通だ。貧困地でも経済発展を遂げた国でも、自分の好きなことは無意識のうちに行っている。鼻歌を歌ったり、本を読んだり、TVを見たり、料理をしたりと、その中に仕事も入っているとのことだ。人は選択によって今の自分がいる。あやまった選択をすることもあ有るだろうが、それは自分が望んでした選択だということが肝となる。
さて、先ほど自分がやっている、選んでいるこの仕事、生活は自分が望んだもの、そういった。今の収入であろうが、環境、労働時間、恋人、親友、全てが自分がいま望んでいるものということだ。もっと別な言い方をすれば、自分にはこれが適している、このくらいの価値があると勝手に認識している状態というものが正しいかもしれない。
今まで生活してきた中で、様々な制約のもとで、社会の価値観を受けながら生活して、自分にあったものを選んでいるにもかかわらず、これは違うと勝手にギャップを作って悩んでいるとのことだ。
ギャップ、これが悩みの正体だ。自分が認識している自己と本来の自己とのギャップ、これに気づくことはなかなか難しい。自分がワクワクしている瞬間など自分でわからない。自然と行っている行動、習慣としていることなど盲目だ。日々を意識的に過ごさないと見つけることはできない。
そんな私は自分の意見をもっと述べたい自己と、そんな人間ではない、話す価値がないと思っている自己とのギャップを感じているのかもしれない。
キャリア、人生には正解がない。自分自身で腹落ちさせるしかない。自分が本当に望んでいることに耳を傾けなければそのギャップは次第に大きくなり、誰もが認める成功を収めようとも決して悩みは尽きることはないような人生担ってしまうのではないだろうか。それを受け止められるのは自分だけであり、解決できるのも自分だけ。
現実逃避をして延期していくのは大きな利子がともなう。過去の自分が自由だったと思えるように、未来の自分から見たら今が自由、決断するにはベストなタイミングだ。常に未来よりも今が自由なのである。
さて自分が認識できていない本当の自己とはどんな自分なのだろうか。
それを知るのは自分だけ
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