ギタリスト石井清貫くんについて。
2016年7月6日に、年下の親友ギタリストの石井清貫くんが難病で亡くなった。
たった35歳だった。
石井くんと知り合ったのは、2005年11月だったと思う。
青山月観る君想うというライブハウスでのイベントでの対バンがきっかけだった。
彼はTWELLVEという、男女ツインボーカルのシュガーベイブを彷彿とさせるバンドのギタリストだった。
僕は自分がリーダーのFULL SWINGというバンドで出演していた。
僕としてはいつも通り演奏しているつもりだったし、当時弟子入りしていた師匠にダメ出ししかされていなかった時期だったので、どちらかといえばスランプだった。
それでも彼は僕たちの演奏にとても感激してくれた。
そこから、特に共演の機会もなく時間は経ち、僕が2008年か2009年に祖師ヶ谷大蔵のカフェムリウイに出演していた時に、近所に住んでいた石井くんが観に来てくれて、一緒に演奏する約束をした。その後、ムリウイや石井くんの行きつけの梅ヶ丘のバーfuzzでも月一で演奏したり、ギタリスト不在だったFULLSWINGのレコーディングに参加してもらったりして、とにかく定期的に演奏した。
のちに石井くんリーダーで、僕のオルガンと元オルケスタデラルスの宮本仁くんの3人でオルガントリオnicenessとして活動もした。
僕は2011年頃から自分のバンドと並行して、サポートの仕事もするようになっていて、メジャーのアーティストのサポートをするようにもなった。
すごく充実した毎日だったが、2015年にとあるメジャーアーティストのツアー仕事でローディー(楽器をセッティングしたり雑用をこなすスタッフ)に持ち込んだレスリースピーカーを不注意で傷つけられてしまった。謝りもせず作業をしている当事者のスタッフに聞くとそっけないすみませんの一言。
僕はそれでも怒らず、マネージャーに事情を説明し、直してほしい旨伝え、了承をもらった。
が、数日後の本番前に楽屋で本番の復習をしていると、現場マネージャーの上司(チーフマネージャー)が現れ、ちょっと座れと僕に言う。
チーフマネージャーは
「まず、楽器を傷つけたことは謝る。で、修理代いくらかかる?」と言う。
僕は「修理屋に見積もってもらったら5万円との事です。」と言った。
すると、チーフマネージャーは
「じゃあ5万円払うから、次のライブから頼まないから。」
僕は意味がわからなかった。持ち込んだ機材を傷つけられて、修理代を請求したら本番前にクビを宣告された事に。
マネージャーは続けた。
「こんな傷つけられたら困る機材勝手に持って来てさ、傷つけられて修理代請求するヤツなんてはじめてだからな。そんなんだったら家に飾っとけよ。」
僕は怒りで震えたが、コールセンターのクレーム対応のバイトなどでの経験がこんなところで生きるとは思わなかったが、怒ったら負けだと堪えた。
じゃあ、この状況をどうするのが一番ベストか瞬時に判断した。
僕は「わかりました。僕もこういう現場が初めてなので勉強不足ですみません。そういうことでしたら、修理代は結構です。」と100歩どころか10000歩譲って折れる事にした。
するとさらにマネージャーは
「なんで最初からそれが言えないんだよ。2,3日考えてから連絡するからな。このことはアーティスト本人には言うなよ。」との事。そのまま部屋から出て行った。
今までの人生で一番に受けた理不尽な対応だった。それもこれから大ホールで 30曲近く演奏するって言うのに最悪の気分だ。
これを書いている今でも怒りが込み上げて来る内容だ。
それでもしっかり本番をこなし、後日2.3日したところで、チーフマネージャーから電話があり、次のツアーを事務所所有の機材を使うなら、参加をお願いするが、自分の機材を持ち込むならお願いしないとの事。なぜかすっかり僕が悪者になっている。
それでも僕は一つでも多くの経験を積みたかったし、こんなことでクビになるのはバカらしいと思い、承諾した。
予定通りそのツアーは参加したが、その次のツアーには呼ばれなかった。
また、アーティスト本人に機材の件についてすみませんと一言伝えると、「何のこと?」との事。
アーティスト本人の意思とは関係なく、こんな理不尽な事が行われている事に、心底ガッカリした。
そして、僕が機材を持ち込んだのは他でもない音楽をより良くするための行為なのに、それよりも現場のスタッフの都合が優先される事にもガッカリした。
この一件を経て、僕は一から学び直して、向こうからお願いされる立場にならなきゃいけないと強く思った。
苦手なピアノはクラシックとジャズの何人もの先生にレッスンを受けたし、ニューヨークに本物のジャズをはじめとする音楽を聴きに行こうと思った。
そこで、ニューヨークに仲が良かった石井くんを誘った。2015年の秋だった。
ニューヨークの旅はたった一週間だが、とても充実した旅だった。
たくさんの音楽やアートなどの文化に触れ、何でもっと早く行かなかったんだろうと思うほどだった。それは石井くんも同じだったと思うが、一週間ベッタリ一緒にいて、少し疲れたのも正直なところだった。
帰国して数ヶ月、石井くんとは連絡を取らなかった。
しかし、2015年の年末に思うところがあって、15年続けたFULL SWINGを無期限休止する事にした。そのブログの投稿を見た石井くんが、僕を呑みに誘ってくれた。
後から考えたら、この時に難病の症状(サルコイドーシスという難病で、原因不明、治療方法も無く、腫瘍が脳幹に出来てしまい脳を圧迫する)は出ていたはずだが、僕には言わなかった。
飲み会も楽しく終わり、2016年年始にばったり駅で石井くんがいるはずもない駅に居た。
僕が「どうしたの?こんなところで。」というと、石井くんは「実はギターのコードがうまくおさえられなくなって、病院に来ました。」との事。
のちに聞くと、町医者で見てもらったところ、気のせいと言われたが、どうにも手がおかしいから大きな病院で MRIを撮ってもらったところ、脳に腫瘍が見つかったそう。ただ、脳腫瘍ではないという報告を受けて、僕は喜んだ。
それから数週間後、僕は石井くんに教えてもらった町田の楽器屋に、これまた数年前に亡くなった元メンバーから引き取ったベースのリペアに来ていた。
すると、そこのリペアマンがまさかの僕の高校の軽音楽部の後輩!実に20年ぶりの再会を果たす。
さらにその日、石井くんが楽器屋にたまたま来ていたので、流れで飲みに行く事に。
ただ、石井くんの病状はとても進行していて、腫瘍が脳幹を圧迫しているため、呂律が回らず、言葉が出てこない為、ほとんど会話は出来ずにいた。
そこからすぐ入院。
それでも病気の進行は止まらず見舞いに行くも会話が難しくなり、ごく親しい友人のみが面会を許される状況になり、寝たきりになり、意識も無くなってしまった。
それは一緒にニューヨークに行ってから、たった半年後だった。
僕は何かできることはないかと考えて、石井くんに友人たちからメッセージをもらい、それを読み聞かせてもらうようお願いした。
色紙を買い、いろんな親しい友人たちからメッセージをもらいに走った。
メッセージをもらい、面会を許されている友人に託し、聴覚だけは最後に残ることをどこかで聞いたので、メッセージが届くよう祈った。
その想いもむなしく、2016年7月6日に息を引き取った。
葬儀での石井くんは眠っているようだった。今でも実感が湧かず、ふらっと呑みに誘ってくれるような気もする。
本当は誕生日を覚えていたいけど、悲しすぎる日だったから、どうしても命日は忘れられない。
あれから6年。石井くんそっちはどうだい?
こっちはぼちぼちやってるよ。
何のタイミングだかわからないけど、石井くんの人生最後の旅を一緒に出来て、誘って良かったと思う。
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