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「LGBT配慮」は誰のため?

 いま行政の中でブーム?になっている「LGBT配慮」。
社会で圧倒的なマイノリティである「性的少数者」に社会の目が向けられてきたという傾向は本当に喜ばしいことですが、これ一体誰のためにやってるんだ?という施策が「そこかしこに散見(頭痛が痛い状態)」するようになり、当事者のひとりとして「なんじゃこりゃあ?」と声を上げることもしばしばなのです。

 例えば、東京都のパートナーシップ条例が2022年6月15日、都議会の全会一致で可決されました。その内容を見てみましょうか。

 対象者は「事実婚を含め配偶者のいない18歳以上の成人同士で、双方またはいずれかが性的マイノリティーで、都内在住か在勤・在学などの人」で、「アウティング防止のためオンラインで申請を行える。」「パートナーシップ宣誓をしたカップルは都営住宅に入居申し込みが可能となる。」など。これ、問題山積みなんですけど、何が問題なのかわかりますか?

 まず、何を根拠に「性的マイノリティ」であるのか、について。
 最近ではLGBTのあとに「Q」ってのがくっついております。この「Q」は「クエスチョニング(性別や性指向について疑問がある)」とされていた「はず」なんですが、ある日気づいたら「クィア(風変わりな・奇妙な)」という言葉に置き換わっていました。ある人いわく「そもそもクィアだったものをクエスチョニングという言葉に置き換え、世間を騙してた」なんてことも言われています。そんな「クィア」ですが、どんな『性的少数者』を含めるのか。
 「Q」に内包されているものとして「ペドフィリア(小児性愛)ズーフィリア(動物性愛)ネクロフィリア(死体性愛)」など、「それ人としてどうなの?」という以前に、もはや犯罪に区分けされてるものをも内包している、ということらしいです。
ちょっとにわかに信じがたいですが、LGBTに続く言葉にPZNとなるらしいので、それをまとめて「Q」にぶちこんだ、ってことみたいです。つまり、小児性愛者や死体性愛者などを含んだ「性的少数者」と言ってるとも捉えられかねない、という話なのです。

 また、自己申告でオンライン申請のため、どういった関係性のカップルなのか、まったく見えないところで申請を認可するという。つまり反社会的勢力(ヤのつく自由業)の方々が飯場で寝てる日雇い労働者を二人つかまえて「この人たちカップルです」と申請すれば、都営住宅に住むことだってできるようになってしまうのです。現在、反社への取り締まりが一層厳しくなり、反社であることが審査にかかってしまうと、通常の不動産屋では部屋を借りることができません。また、契約時に反社でないことを宣誓しなければなりませんし、もしバレたら強制退去をさせられることとなります。基本的に反社は「部屋が借りられない」という状況のもと、ホームレスや日雇い労働者を使って都営住宅などを借り、そこを拠点に弱者ビジネスを展開することも可能となってしまうのです。また、背景にある弱者ビジネスを調査したとして、すぐに部屋を借りることができなかった場合、「これは差別だ!」と騒ぎたてれば、すぐに入居できるような仕組みであることにも注目です。行政は「差別だ!」という言葉に極端に弱く(弱者のための制度であるはずなので)、差別と言われればすぐに入居させる、ということも簡単に予想できるのです。

 反社でなくても、ただ普通に友達同士でルームシェアするのに使っても、都営住宅だからシェアハウスよりも安く部屋を借りることができる。それ、LGBTを名乗ればどんな人でも「優遇」を受けることができるって、制度としておかしいとは思いませんか?どんな関係性であったとしてもパートナーシップを結べば、問題なく借りられますよ、という意味での「パートナーシップ制度」であれば、なんの問題もありません。しかしそこに「同性カップル」という文言をつけることで、より一層の混乱があるように思うのです。
世の中には「友情婚」という内縁婚のようなものもあります。同性同士の友情婚なら、パートナーシップ制度を利用する意味も理解できます。しかし、男女においてこれを利用し、どちらかが「私は内心の性が異性のため、同性愛です」と申告した場合、これも行政としては判断も拒否もできません。

 もちろん、この制度自体は日本では同性婚が認められていないため、同性カップルが異性カップルの婚姻者と同じように部屋を借りたり、あるいはこのパートナーシップ制度のおかげで緊急入院などの際、同伴者として認められるようになる、ということを見込んでいるはずです。同性愛カップルということで、世間から受ける「マイナス」を「ゼロ」に引き上げていくことこそ、パートナーシップ制度の根幹であるはずです。
 しかし、一昔前とは状況が違ってきている現代日本では、パートナーシップ制度などなくても正直に同性カップルであることを告げた上で部屋を探しても、きちんと借りることができるようになってきていますし、また病院においても、配偶者や異性カップルに限らず、患者にとってどの人がキーパーソンであるかを重要視するようになったため、同性だろうが異性だろうが、パートナーであることを自己申告すれば、婚姻夫婦同様に、患者さんの同伴者であると認めています。
 つまり、時代が変わってきて行政のお墨付きが必要ではなくなってきている、という現状に、わざわざ周回遅れで「行政のお墨付きをあげましょう」という話なのです。
 また「同性カップル」という括りに対し、セルフID(自分で自分の性別を決められる)が混ぜられた場合、トランス女性と女性、トランス男性と男性も、いわゆる「同性カップル」とみなされてしまいます。本来では戸籍上男女のため通常の婚姻ができる関係性のはずなのに、わざわざ「同性カップル」という申請を行えば、同性カップルとして申請を通す、というのも、矛盾ある制度といえるのではないでしょうか。

 と、東京都のパートナーシップ制度をあげてみましたが、こんなん日本中どこにでも転がってる行政の、LGBT自己申告者に向けた「優遇制度」なんだろうと思ってます。『自己申告制度』である以上、誰でもLGBTを名乗ることが可能です。
 反社勢力によって、複数人のホームレスが性的マイノリティを詐称して都営住宅を申請すれば、そこが反社の運営する弱者ビジネスの温床になることも可能性として否定はできない。
 また、戸籍上男女の異性愛カップルでも、どちらかがトランスであることを申告すれば、同性であるとみなされてしまうため、実際の婚姻関係の確認は必要なく、実際にはただの同棲のはずなのに、優先的に都営住宅に住むことができる。しかも、入居後にパートナーシップを解除(つまり別れるってこと)をすれば、速やかに退去しなければいけない、などの規則もないため、都営住宅契約時にはカップルだったとしても、入居後に別れたということで単身入居することが可能になる、ということも考えてあるのでしょうか?
 都営住宅は独居老人のグループホーム状態になっているところも数々あります。もっと若い人を入れたいということもわかりますが、その役目を「LGBT」に担わせるというのも、如何なものかと思うのです。

 では、そんな「LGBT配慮」って、そもそも誰に向けての配慮なんでしょうか? いや、言い方を変えましょう。LGBの方への「配慮」って、そんなに騒ぐほど必要なんでしょうか?

 ゲイであることを、おおっぴらに誰にでもカミングアウトしたい人ではない限り、男二人で部屋を借りる、あるいは女二人で部屋を借りることに対して、今のこの世の中において「あんたたち、おかしいよ」なんて指をさすようなことを言う人が、はたしているんでしょうか?
 また、LGBの人たちは、性別に対しての「苦痛」や「苦悩」といったことも、感じないでしょう。自分は男として男を愛する、あるいは女として女を愛する、男も女もすべての性別を愛することができる。それだけのはずです。現代の日本では同性愛者を発見次第逮捕するような国ではないですし、同性愛者に対し、それを理由にリンチを加えるようなこともありません。(確実に無いわけではないですが、諸外国のような苛烈な差別や苛烈な暴力に晒されることもないと感じています。)

 では、配慮すべき必要が生じる相手って、一体誰なんでしょう?答えは「T」の人々への配慮、それが一番必要なことなのではないか、と思うのです。「配慮」はあくまで配慮であり、優遇ではありません。誰かを有利にするという考えではなく、本来はマイナスをゼロにするために行うことが「配慮」なのではないでしょうか?

 女性の服装をし、女性に見た目は見えるけれど、戸籍上は男性。あるいは、男性にしか見えないけれど、戸籍上は女性。こういった移行中の人たちは、性別で明確に分けるシステムの中で、非常に曖昧な状態にいます。
 トランスジェンダー、あるいはトランスセクシャルという「性別を越境したい者」について、昔ほど奇異の目を向ける人は少なくなりました。とくに都会では「あぁ、そういう人なのね」という理解が暗黙にあり、ジロジロ見るのは失礼だ、と思ってくれる「無言の配慮」があります。はっきりとした態度を示さずとも「そういう人だからそっとしておこう。」という配慮は、移行中のTSにとっては、ありがたいものです。中には「どうしてそんな格好をしているの?」と興味本位で聞いてくる人もいるでしょう。それでも、きちんとした対応さえできれば、大方は問題になるようなこともないと思っています。

 RLE(リアル・ライフ・エクスペリエンス:トランスが性別再適合手術を受ける前に、一定期間、望む性別でのフルタイムの生活体験を実際にしてみること)という言葉があります。
性別移行を行う際、一度女性(あるいは男性)として、異性として生活をしてみる体験のことです。性別は前のまま、別の性として生きるわけです。
今までは同性の中で生活していた者が、別の性として新たな一歩を踏み出す。それは幾多の不都合を乗り越える時期でもあります。実際に体験してみることで、自分は移行できるのだろうか。移行して生活できるのだろうか。同性として認めてもらえるのだろうか。試行錯誤と挫折とを味わいながら、徐々に自分への自信を身につけていき、移行するための手術を行うべきなのか、それともトランスジェンダーとして前の性別のまま生活していくべきなのかをはかるための体験です。
 前の性別のまま、半分移行するような生活を送っていくという選択をした場合、なかなかに難しい生活を送ることとなります。手術をしていないわけですから、もちろん戸籍上も前の性別です。つまり、見た目が女性に見えたとしても、女性スペースに入ることはできません。ですから、トイレなどは男性トイレを使うか、多目的トイレを利用することになります。多目的トイレは設置数も少なく、また車椅子の利用者や高齢者などが利用するため、なかなか入りづらいという現状もあります。むしろ、配慮していくべきは、こういったところにあると思うのです。

 ここでひとつ、実際に起こったことを例にあげてみたいと思います。性別移行中の「女性に見える戸籍男性」が、とある温泉に行きました。本人は女性に見えることはわかりつつ、女性のロッカーの鍵を渡された際「私は男性です」と自己申告をしました。すると、温泉の施設関係者は「あなたは対応することができない」と入湯拒否をされました。この場合、どこに配慮が欠けていて、どこに問題があったのでしょうか。

 まず、戸籍上男性が男性の風呂に入る、ということを断られました。見た目が女性であり、男性の中に入れるのは危険だと思ったのかもしれません。男性側が加害する可能性があるから、断った、ということなのかもしれません。
 でも、ちょっと待ってください。公共の場で女性に見える男性器のついた戸籍上男性が一緒に入浴したとして、そこまでの危険というのがあるのでしょうか?「入りたくても入れない」と「入れるけれど遠慮する」では、大きく違うと思いませんか?
 TS当事者にとって拒否される現実というのは、かなり精神的にも堪えるものです。男性として男性トイレに入る。男性として男風呂に入る。この当たり前の行為すら、拒否されるのだとしたら、どこでどのように生活すればいいんでしょうか?
 TS当事者は何も特別なことをして欲しいわけではありません。特別な配慮をしてくれと頼んでいるわけではないのです。当たり前のことを当たり前にできる状態を作って欲しい。それが「配慮」という言葉になるというのなら、多少の配慮をお願いしたい、と言っているだけなのです。

 TS当事者は「LGBT配慮」というざっくりとした「優遇措置」を求めているわけではありません。当たり前のことを当たり前にすることができるよう、ほんのすこし理解を深めて欲しい、と願っています。
 MTFは女性スペースをおかすことのないよう、こちらは配慮して生活をしています。男性スペースからも追い出さないでください、と。
 それとは逆にFTMは戸籍上が女性であったとしても、見た目が男性に見えるのであれば、男性のスペースを利用します。これについては男性が気づいたり声をかけてくるようなことは、ほとんどありません。男性は女性ほど他者をしっかり見ていないからです。
 最近の若い子たちの中には、洋式トイレで用を足す時、座っていないとできない、という子もいます。小さい頃からの躾で「撥ねとばさないように」と厳しくされた子は、座ってすることしかできないといいます。常に個室トイレで用を足しても、何ら不自然は無いのです。
 また、FTMの場合、仮に温泉や公衆浴場に行った場合、男性のロッカーキーなどを渡されることでしょう。戸籍上女性だったとしても、です。胸の手術をしていないFTMは、さすがに男性風呂に入ることは厳しいと思いますが、この状況こそ「入れるけれど遠慮する」という状態なんだと思います。当たり前のことを当たり前に享受することができているわけです。

 このように、同じTS当事者でもFTMとMTFでは抱える困難も状況も違います。この非対称性について理解をしていくことこそが「配慮」なのではないでしょうか。
 今まで、同性カップルは異性愛の婚姻が可能な人々よりは困難があったことは事実です。このパートナーシップ制度により、恩恵を受けられる同性愛カップルが数多くいればいいのですが、実際のパートナーシップ利用・活用数を見ると、驚くほどの少なさなのです。つまり「誰も使っていない」のです。パートナーシップ制度に伴う「優遇措置」があってこそ、みんなが利用するようになる、という目論見があるのです。
 優遇でなくても、マイナスがゼロになれば、とささやかに願う人々が、曖昧な制度によってもともと関係のない人々が「優遇」を受ける可能性のある、そんな制度ということに気付いた人は、この不備について声をあげはじめています。
 そもそも「マイナス」の地点で権利を奪われた人々が「ゼロ」にしてください、と声をあげはじめたのが、「性的少数者の声」だったはずです。それ以上のことは、何も望んでいなかったはずなのに、それを利用しようとする人々が利用しやすい状況にある、というのが現状です。
 正しく運用し、それぞれの人が望んだ生き方をできるように。そのための「行政の配慮」が必要なのではないでしょうか。厳格な審査と正しい運用がなされ、奪われてきた当たり前の権利を行使できるような世の中になることを強く望みます。

2022年6月20日 浅利 進(仮名)

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