「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」読了記録
巷で話題の本を読んでみた。
普段、こういう話題の本というものに手を出すことはほとんどないのだが、この時(この本を購入した時)は実際に労働に勤しむあまり読書というものから縁遠くなっていた。そんな私に雷が落ちるかの如く視界に飛び込んできたのでつい買ってしまった。
購入したのはいつのことだったか。おそらく三月よりも前だ。
三月まで働いていた職場に在籍していたとき、読書が出来なくてこの本を手に取ったのを覚えている。
しかし三月末に退職して以降、また何事もなかったかのように本が読めるようになったので、途中まで読んで積読にしてしまっていたのだ。
以下、書評でもなんでもない個人の感想を綴る。
序盤は正直つまらなかった
何が言いたいのかいまいちわからない。労働史?読書史?なんぞねや?という疑問符ばかりが脳内を渦巻いていた。
だから何か月か寝かせていた。
改めて読み進めようと思ったのは、それまで読んでいた本が読み終わって他に読むものがなくなったからだった(というより、読みかけの本を消化していきたいと思ったからだ)。
多数の引用、参考文献。
著者の読書量の多さを感じるが、それ以外に特に私の内に響いてくるものは特になく読み進めていた。
読んでいると、急に面白い!という場面が訪れる
それが「第八章 仕事がアイデンティティになる社会――2000年代」の項である。
端的にまとめるならば、ここでは「好きを仕事にしよう」という、ゆとり教育におけるキャリア育成が描かれていた。
ドンピシャゆとり世代の私からしたら、やたらめったら「好きを仕事にしよう」という風潮の中で育ったので何の疑問を抱いてこなかったが、この時初めて気づいたのだ。ゆとり教育が結果として「好きを仕事にしよう」という理想論を作り上げていたのだと。
まんまと嵌められたな、という気持ちになった。
(自分の身に起きたことが描かれていると途端に興味を持つのが人間の性だろう。このあたりから読むのが面白くなった。)
そうしてそのうちあぶれたのが「やりたいことがない」という若者のフリーター層への流入だ。
「やりたいこと=好きなこと」を仕事にしようと言われてきて、いざ社会に出る段になるとやりたいことが見つからない。
これは当時の、一種の社会問題でもあった思想だと思う。
かくいう私もそうしたフリーター期の長い人間だ。
面接で「正社員で働いていないのはなぜですか?」と問われる度、いつも思い浮かぶ素直な言葉は「正社員で働きたいと思えるような会社がなかったから」である。
それはつまり、正社員で働きたいと思えるほどの好きな会社がなかったから、という意味である。
(今にして思えば、会社に好きを求めるのは間違っていたのだと気づくが、当時の私はまだまだ理想を夢見ていたのだ。)
ゆとり教育が「好きを仕事にしよう」を掲げていたとするならば、その後のさとり世代はどうだったのだろう。今のZ世代でいえば、「適職診断」から仕事を選ぼうという風潮があるように思える。
昨今流行のMBTI診断もそうだ。自分がどんな人間なのかを知り、それにあった仕事を探す。
なんともまぁ、うまい具合に人間は動かされていると思う。
上記の部分だけはとても共感して面白く読めた項だった。
その後は「文脈」という単語を多用し始めて読む気が失せた。
文脈という一語に頼りっぱなしの文章で結局のところ何が言いたいのか分からなかった(おそらく文脈という言葉を使うことで読み手に解釈の余地を与えているのだろうけれども)。
後半に出てくる「ノイズ」という表現もそうだ。
この表現も百パーセント適切かというとそうではないような気がする。
この本の結論は「全身で働くから社会から、半身で働く社会になるといいね」というところだ。
全身全霊で働くより、半身で働こうという話である。
これに関しては私も同意見だ。
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ここで私の理想論の話をしたい。
人間、週5日8時間労働プラス残業は働きすぎだというのは常々思っている。
週5日、8時間労働+残業
この働き方は、言ってしまえば昭和に確立した昭和のサラリーマンスタイルだ。
ここで注目すべき点は、彼らサラリーマンには自宅で家事の一切をしてくれる専業主婦がいたという点だ。実家暮らしで親が家の面倒をみてくれていたという場合もあるだろう。どっちにしろ、家に帰れば家のことをしてくれる存在があったということだ。
掃除、洗濯、食事の準備。それらが整っている家があれば、そりゃあ外で8時間働いてもいられただろう。
しかし昨今は一人暮らしが多く、専業主婦というのももう廃れている。
とするならば、外で8時間労働して家事までするのは土台無理な話である。
私の理想論は週休3日制。
もちろん、給料はそのままで。
ここからは壮大な机上の空論話になるので呼び飛ばしてもらっても構わない。
日本は今後人口減少が必須の民族である。その前提を踏まえて考えたのだが。
令和の現在、企業の数は(大なり小なりあるが)飽和状態を迎えているのではなかろうか。
ドラッグストアを見てみても、シャンプーの種類が多すぎる。同じ用途なのに同業他社が同じような製品ばかりを作っている。減らせ、と思う。
今後人口が減少していく日本の未来を考えた時、今ある企業数はどんどん減らしていかなければ社会が成り立たない。今ですらどこも人不足であるのだから、このままいけば倒産する会社が出てくるのは目に見えているだろう。
(これは余談だが、どこもかしこも人不足だと嘆いているのを昨今の会社経営を見ると、同業を二、三社統合してしまえば解決するのでは?と常々思っている)
会社の頭数を減らし、一つの会社で働く人数を増やす。
雇用人数を増やしたうえで、一人あたりの労働時間は減らす。
みんなそこそこの時間を働くだけでいい。
給料の維持は、社会全体で同業他社を減らしていくことにより、競合をなくす。競合がなくなれば他社と比較してコストを抑えて利益を出そうなんて考えはなくなる。消費者も他の安いところがなければそこ一社で買うしかないので、値崩れもしない。
これが私の理想論だ。
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話を戻そう。
この本の中でもう一つ気になったワードがトータル・ワークである。
とどのつまりが、生活のあらゆる側面が仕事に変容する社会という意味である。
これはいわゆる、フリーランスの働き方に置き換えられると思う。
自分の裁量で仕事ができるということは、裏を返せば24時間仕事をしてしまう可能性もあるということ。
会社に努めていれば最低保証賃金はあるわけだから、怠けたい日も保証される。しかしフリーランスは働かないとお金にならない。
私がフリーランスという働き方に憧れつつ、そこに着地しなかった理由がそこにある。
根本的に働きたくないという考えが脳幹に強くこびりついてるような思考だ。
旅をしながら働ける?
いや、旅してる間は仕事のことなんか考えたくないし。
家で仕事が出来る?
いや、家に仕事持ち込むとか社畜じゃん……
結果気付いた。
私って働きたくないんだ。
結論として、この本を読むと、今までぼんやりと感じていたことを明確に言語化してもらえたような気がする。
最初は退屈に思えた労働史や読書史も、一度自分と身近な部分に触れると途端に理解しやすくなるのだから不思議なものだ。
新書本は今まで手が伸びなかったジャンルだが、これからは少し読書範囲を広げようと思えた一冊だった。
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