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『コティロリー・ザツベルクラータの雪』


『コティロリーザツベルクラータの雪』 加美村啓


 不穏な空気が流れている。もし平常通りならば、静かな午後になるはずだったその日、……残念ながら、……静寂と平和は、この町とこの物語の主人公たちには訪れなかった。

 舞台はアミストロットベクヤーダというなんの変哲もない普通の町である。

 そこには、生前はトーラ・ネコラフという名前の、三十四歳の冴えない男が住んでいた。 彼はのちに、アンストン・ウェクアージュアという新たな名前を与えられる。

 誰に?

 クラゲにである。

 さらに言えば、その日の朝、彼はクラゲの夢を見た。

 そして、彼は、その後、三十四歳の若い命をクラゲによって奪われた。

 彼は、不可解な死を遂げた。

 警察たちは、彼の部屋で何が起こったのか、正確な内容を知ることはできなかった。

 なぜなら、彼は、出血多量及び、クラゲの猛毒によって息絶えていたからである。

 彼の部屋に、クラゲはいなかった。

 何が起こったのか、まるでわからなかった。


 しかし、わからないのも無理はなかった。

 事の真相は、こうだからである。

 そして、こんなことは、現実では絶対にありえないからである。

 

 その日の朝、まだトーラ・ネコラフだった彼は、いつになく不吉な夢を見た直後だったが、それがどんな夢だったのかはまるで思い出すことができなかった。

 いや、思い出したくなかっただけなのかもしれない。

 彼は、見ていた。

 クラゲが、あまりにも大量のクラゲが、水の中でもないはずの彼の部屋中に揺蕩(たゆた)っていたのを。

 そして、そのどれもが、彼を刺していたのだ。

 クラゲの毒に犯されながら、彼の心臓は、激しく鼓動していた。

 口は渇いていたが、目は濡れていた。

 呼吸はまるでできなかったが、あらん限りの気力を振り絞って、わざとでも大きく呼吸をしようとした。

 しかし、いつまでも、呼吸はできなかった。

 まだ、夢と現実の区別が上手くつかなかったが、これは現実ではないはずだと必死に自分に言い聞かせた。

「何のことはない。これはただの悪夢さ。しかし……」と、一人で呟く。

 しかし、もちろん、声など出ていない。

 彼はやけに重たくなった頭と心と体を、何とか現実に引き戻そうとして、さらに、なんとか明るい気持ちも取り戻そうとして、ゆっくりと身を起こし、ベッドから降りたのだが、そこで失敗したのだった。

 彼は、もう、すでに死んでいた。

 もっと、正確に言えば、彼は殺されたのだった。

 クラゲによって。

 クラゲは、彼を捕らえて離さなかった。

 クラゲの仕業なのである。

 全ては、この日の朝、クラゲが仕組んで、クラゲが企画したことなのである。

 企画、設計、クラゲ。

 主演、トーラ・ネコラフ。

 のちの、アンストン・ウェクアージュア。

 舞台は、アミストロットベクヤーダの町、及びその上空。

 ちなみに、この日の朝は、晴れ渡ったこの町の青い空には、いっぱいに、一面に、果てしなく、盛大なクラゲ雲がかかっていた。

 どこまでも、どこまでも、白く漂う、大量のクラゲたちだ。

 揺蕩(たゆた)う、クラゲたちだ。

 不穏な空気。

 それは、すでに流れていた。

 午後からと言わず、朝からだ。

 それは、大気の大きな乱れとともに、新たな世界と物語の幕開けでもあったのである。

 もちろん、企画、設計したのは、クラゲだ。


 トーラ・ネコラフは最後まで夢だと思っていたので気づくことはできなかったが、実はその時、アミストロットベクヤーダの町の青く晴れ渡るこの空一面だけではなく、彼の部屋もまた、クラゲで埋め尽くされていたのである。空には、クラゲ雲だが、部屋には、本物のクラゲたちというわけである。彼は、クラゲに目を付けられている。彼は、クラゲの標的であり、この物語の主人公である。企画、設計は、クラゲである。絶対に、クラゲである。クラゲでなければならない。クラゲファンタジーは、クラゲが作ったのだから。それは、悪夢の続きだった。悪夢の続きでなければならない。そして、突然の物語の始まりだった。ならば、彼は、クラゲに躓かなければならない。

 だから、彼の意思とは関係なく、ギャーッガッッ……デン!!!大きな音を立てて、クラゲに躓いた彼は、そのまま冷たい床にうつ伏せになってしまわなければならない。大量の血が流れなければならない。可哀想な、トーラ・ネコラフでなければならない。

 ならば、無残にも、受け身も取れず、彼は顔から床に落ちていなければならない!!!だから、歯は砕け、顎は割れ、鼻は折れ、額からは大量の血が流れていなければならない。

 ドクドク、ドクドクと。

 あるいは、毒毒、毒毒と。

 もっと言えば、毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒毒、と。


 可哀想なトーラ・ネコラフは、突然主人公に選ばれた。ここまで、彼は、台本通りに演じてくれた。文字通り血の気を失って、ドクドク、ドクドクと大量に流れ出る血と、クラゲの毒に見舞われて。

 そして、もうすぐ死ぬ。

 気を失ったまま、出血多量でも死ぬし、毒を解毒できずに毒死もする。

 一度で、二度死に、報われることなく、この世を去る。

 しかし、そこから先は、台本のない物語だ。


 だから、彼は、死んで初めて、彼を殺したのはクラゲだったということを知ることになるのである。


 そして、彼は、彼の死を悼む人が誰もいなかったことに、心が痛んだのだった。それもあってか、あらずか、とにかく彼は、彼を殺したクラゲたちを、恨んだのだった。

 恨んだだけではなく、なんとしても、この無念を、クラゲを倒すことによって晴らさなければならないと思ったのだ。

 だから、彼は、死んでから夢を持った。目標を持った。クラゲを倒すという夢を。目標を。それは、立派な目標だった。クラゲたちの考えの及ばなかった、台本にない物語の始まりだった。彼は、自ら、物語を作り始めたのだから。

 なんであれ、まずは、新しい体が必要だった。

 意思は、あったからである。

 夢も、目標も、あったからである。

 ただ、体だけは、なかったからである。

 つまり、体を、クラゲに取られたとも言える。

 いや、彼は、そう言うことにした。


「俺の体は、クラゲに取られたよ」と。


 そして、それは、確かにそうだったのである。

 クラゲが、トーラ・ネコラフを出血多量及び毒死という手の込んだ二重死の手段を持って殺害したのは、どうしても、トーラ・ネコラフの体が欲しかったからである。

「もし、出血多量でも死ななかったならどうするのだ?」と、アミストロットベクヤーダの町の上空に揺蕩うクラゲ雲の中で、今朝突然クラゲたちによって開かれた『New Fantasy Spectacle ニューファンタジースペクタクル』という大層大仰でいろんな意味で滅茶苦茶な名前のクラゲ会議の中で、スティギオメデューサ・ギガンティアという体長約6メートルにも及ぶ超巨大クラゲが呟いたものである。

 スティギオメデューサ・ギガンティアの大変凄みの効いた呟きは、アミストロットベクヤーダの町の空を、雲を、『ニューファンタジースペクタクル』クラゲ会議が開かれていたその空間を、外見には大量のクラゲ雲にしか見えないその別世界を、震わせ、凍りつかせるほどの、有無を言わさぬ迫力を持っていた。

 側にいた、コティロリーザツベルクラータなどは、もう、肝を冷やしていたが、それでいて、コティロリーザツベルクラータは、笑ってもいた。

 コティロリーザツベルクラータは、とても可愛い、小さなクラゲである。

 ちなみに、スティギオメデューサ・ギガンティアは、このファンタジーストーリーの中だけではなく、現実世界にもいる。

 むしろ、現実から勝手に借りてきた。

 それは、コティロリーザツベルクラータも同じである。

 というか、この物語で出てくるクラゲの名前は、全て、現実に存在するクラゲの名前である。

 架空の名前ではない。


 同時進行。別世界。死後。


 トーラ・ネコラフは、彼の体を探している。しかし、彼の元の体は、もう元には戻らない。何故なら、死滅したから。その後、クラゲによって食べられたから。

 残っているのは、彼の意思だけだ。

 ところで、彼に、彼の死を伝えたのは、コティロリーザツベルクラータである。

 さらに言えば、コティロリーザツベルクラータは、今、彼の側にいる。

 何故か?

 コティロリーザツベルクラータは、トーラ・ネコラフのことを可哀想だと思ったのである。

 だから、コティロリーザツベルクラータは、今朝、クラゲ会議『ニューファンタジースペクタクル』を、こっそりと抜け出してきた。

「無理。ちょっと、私には無理よ。可哀想過ぎるわ」と静かに言いながら、コティロリーザツベルクラータは、その世界を、すっと抜け出した。

 その時、その瞬間のことである。

 一陣の風が吹き抜けたのは。

 それだけではない。

 颯爽とその場を立ち去ったコティロリーザツベルクラータの前後には、一陣の風が吹き抜け、同時に雲間には美しい虹が現れたのである。

 

 その虹が上手くコティロリーザツベルクラータの姿を隠してくれていたが、クラゲの姿のままでは、いずれは他のクラゲたちに、特にあの恐ろしいスティギオメデューサ・ギガンティアに見つかるからと、人間の姿になったのだ。小さくて可愛らしい、この物語のヒロインのクラゲは、美しく変身を遂げた。それもまた、台本にないことだった。つまり、コティロリーザツベルクラータもまた、自らで新しい物語を作り出したのである。


 コティロリーザツベルクラータは、若い女性の姿になっていた。

 いや、実を言うと、性別は、よくわからなかった。

 人間の姿になったコティロリーザツベルクラータは、腰まである長く美しい金色の髪をしていた。端正で美しい顔立ちだったが、背が高く、非常に逞しい筋肉の鎧に覆われているような体つきをしていた。

 彼女は、その姿で『ニューファンタジースペクタクル』クラゲ会議の開かれている、アミストロットベクヤーダの町の上空の、クラゲたちの作った別世界の中に存在しているいくつもの危険なゲートを潜り抜けてきた。

 最後のゲートにいる守衛役のクラゲ、ディプルマティス・アンタークティカ(もちろん、現実に実際に存在しているクラゲの名前を拝借している)は、彼女がコティロリーザツベルクラータだとはついに気づかないまま、コティロリーザツベルクラータをゲートの外の別世界へと送った。

「どうぞ、どうぞ、綺麗なお方。おや、あなたは、こんなしがない守衛役のディプルマティス・アンタークティカにも笑いかけてくれるのですね。私だって、この物語で、ただの守衛役に甘んじるつもりはありませんよ。それに、ああ、あなたは私の名前を素敵だと言ってくれた。おお、ありがとう。そして、また、必ずお会いしましょうぞ!その時は、私は、ただの守衛役ではありませんぞ!この先に、新しい物語があります。私も、ここで終わるつもりはありませんや!きっと、いずれまた、お会いすることになるでしょう!その先に。新しい物語に!あなたは、行くのですな。私も、いずれ、行きますぞ。さ、行きなされ。優しいお方……」そこに、その先に、トーラ・ネコラフはいる。


「何かの手違いで、体だけは過剰な筋肉質の体つきになってしまったのですが、もともと、クラゲの時も、私はフェメールです」と、彼女、コティロリーザツベルクラータは、トーラ・ネコラフに言った。

「現代では、ウーマンでもレディでもなく、フェメールなんて生物学的な言い方をしたら、ジェンダーとかなんとかで面倒なことを言われそうですけど、特に、SNSは怖いわね。ほんとに。気にくわない人がいれば、すぐに追いやれてしまうのよね。人間のやることは、時にあまりに酷い悪意に満ちているわ。それに、賢さは、簡単には汚さと切り離せないわ。それもまた、未熟さゆえ……。そこまで、時に怖くなれる(恐ろしい存在になれる)人間が、どうして、いつまでも未熟に甘んじるのか?それはそうと、私は単純に、フェメールって語感が気に入っているんです。これも、まずいこと言ってるかしら?」と、彼女は言った。

「いや、別に、気にしなくてもいいと思うよ(確かに、かなりまずいことばかりを言ってはいるけどね……。現代がどんな状況だろうと、知ったことか。時代錯誤でも問題ないや……)」と、トーラ・ネコラフ、いや、すでにアンストン・ウェクアージュアである主人公は答えたが(あるいは、思ったが)、あまり冷静ではなかった。


 自分には、夢も情熱もある。

 クラゲを倒すという、立派な目標がある。

 それなのに、体がないのである。

 ファンタジーストーリーと言いつつも、彼にとっては、最初からずっと不条理な物語である。


 突然の死。

 突然の名前の変更。

 突然のコティロリーザツベルクラータ。

「気にされてるんですね」と、コティロリーザツベルクラータは言った。

 静かに優しく、寄り添うように、この不条理な物語の主人公に言った。

 だが、彼女は、笑っていた。

 どうも、彼女は、笑ってはいけないところでも、平気で明るく笑う人だった(お尻を叩かれなければいいのだが)……。


 それはそうと……。

「スティギオメデューサ・ギガンティアが、主犯です。突然ですが、しかし、この物語は、もうそういう方向で進んでいきますわ。これだけは、台本のない物語でも、企画、設計はあるんですもの。止めることはできません。あくまで、主犯はスティギオメデューサ・ギガンティアです。スティギオメデューサ・ギガンティアは、この物語であなたの宿敵です。彼が、あなたの体を欲しがったのです。そして、あなたを殺しました。私は、彼の手伝いをする予定でした。同じクラゲですもの。でも、無理でした。見ていられませんでしたよ。可哀想過ぎたのです。あんな台本ありえませんわ。あんまり、主人公を馬鹿にし過ぎです。それに、あまりにも突発的に考えられた、非常にお粗末な台本ですし。付き合いきれませんよ。時間の無駄とは、こういうことを言います。まあ、私に言わせれば(叩かれてもいいですけど……)、ほとんどのことは、本当に時間の無駄ですわ。ええ。時間の無駄ですとも!!誰かと一緒にいるのも、仕事をするのも、遊ぶのも。大抵は、取るに足らない時間の無駄なんです。気に病むことばかりなのは、そのせいですよ。もともと無駄なことなんですから!阿呆らしいんですの。その上、叩かれますし。アンストン・ウェクアージュアさん……。いいえ……。アンストン・ウェクアージュア……。私はむしろ愛情を込めて、あなたを呼び捨てにしますわ。聞き慣れない名前だと思いますけど、これがあなたの新しい名前ですわ。私が決めましたの。あなたにとっては、とても親しみやすい名前だと思いません?それもそうですの。なぜって、あの町の名前から取りましたから。アミストロットベクヤーダの町から。だから、アンストン・ウェクアージュア。アミストロットベクヤーダのアンストン・ウェクアージュア。ええ。素敵。とっても、素敵な名前。この不条理な物語で、あなたは、アンストン・ウェクアージュアを演じなければなりません。でも、それは、これまでのように誰かに演じさせられるのではありません。あなた自身が、あなた自身で選んだ物語を、つまりは、人生を、演じるのです。作り出すのです。生きるのです。設定上は死んでるんですけどね。でも、本当に生きるということは、これくらいの非常識であり得ない設定じゃないと難しいとも思うんですよ。現実は、あまりにもしがらみが多すぎて、自分の意思で生きているなんて、誰も言えないんじゃないかと思うんですよ?また、まずいこと言っていますかね?SNSで叩かれますかね。あるいは、相手にされずに、総スカン。悪意のあるシカトをかまされますかね。スカンもシカトも死語ですかね。それは別に何でも構いません。大事なのは、現代は特に、思っていることも、本当のことも、大きな声では言えないような時代だということです。気に入られるような発言を常に求められます。それは、本当に生きていることになりますかね?自分の人生なんて、有って無いようなものじゃないじゃないですか。くだらない!!それに比べて、ここは、むしろ安全ですよ。生きたいように生きて下さい。好きなことを好きなように言っていい。好きに生きていい。あなたの思ったように、生きて下さい。私は、コティロリーザツベルクラータと申します。こう見えて、クラゲです。よろしく」と、彼女は言った。

 トーラ・ネコラフ改め、アンストン・ウェクアージュアは、察しの良い人間である。彼女が、コティロリーザツベルクラータがクラゲだということは、言われる前からすでに気づいていた。「同じクラゲですもの……」と、彼女はすでに言っていたではないか。クラゲが彼を殺した。そして、彼はクラゲを倒す目標を持っている。しかし、目の前にいる人間の姿をしたクラゲは、「無理でした。あなたを殺すことは私には無理でした。可哀想過ぎましたもの……」と、自分に対して同情してくれていた。はっきり言って、彼女は、クラゲの側ではなく、自分の側についてくれている。だから、彼女を恨むわけにはいかなかった。しかし、これは一体、何なのだ?

 クラゲが私を殺して、私はクラゲを倒す夢を持った。

 私は死んで、体を失って、しかし、意思はあるのだ。

 私を殺したクラゲの仲間は、私に同情して、私の目の前にいる。

 彼女は、コティロリーザツベルクラータで、もう今やクラゲの側ではなくて、私の側についている。

 そうやって、主人公は必死に考えている。

 もはや、これは、悪夢ですらない。

 もっと、もっと、取り返しのつかない、恐ろしい死後の世界だ、と。

 いや、コメディ?

 ファンタジー?

 いや、正真正銘、これは小説なのである。

 そうだ。これが、新しい物語なのである。

 「大丈夫。あなたは、決して一人じゃないわ。最後まで、私がこの物語で付き合うわ。一緒に、必ず新しい物語を作りましょうね!!」コティロリーザツベルクラータは、ウィンクした。彼女は、優しく笑っていた。


 同時進行。現実世界。警察たち。


 アンストン・ウェクアージュアは、死後の世界に、心の優しいクラゲ、コティロリーザツベルクラータと一緒にいる。

 しかし、現実では、彼がトーラ・ネコラフだった頃の世界には、だから、トーラ・ネコラフがいたその部屋には、トーラ・ネコラフの死体を恐る恐る眺めている警察たちがいたのだった。彼の部屋に、ごっつい体格の男たちが、五人もいたのである。まだ悪夢は続いているのか?そうではないし、そうだとも言える。悪夢は悪夢。現実は現実。死後は死後である。それらはまったくの別物だ。

 しかし、それが、トーラ・ネコラフには当てはまらなかったならば、当たり前だが、その限りではない。

 クラゲがトーラ・ネコラフの部屋を埋め尽くしていた今朝の時点で、すでにトーラ・ネコラフは、現実と悪夢の融合の中にいたのだから。

 ところで、クラゲに代わってトーラ・ネコラフの部屋を埋め尽くしていた五人の警官たちは、青、赤、黄、黒、白と、それぞれに異なる色の半袖の制服を着ていたが、誰もがそのむき出しの筋肉からむさ苦しい匂いを発しながら(つまり、噎せ返るような匂いを発しながら)、トーラ・ネコラフがまだうつ伏せになって意識を失っている状態に間違いがないかを、ただそれだけを真剣に思案していた。可笑しな話である。警察たちは、トーラ・ネコラフが死んだとは思っていなかったのだから。

 現実のトーラ・ネコラフは死んで、死後の世界で今は、アンストン・ウェクアージュアになっているのに……。

 トーラ・ネコラフの部屋で見るも無惨な姿で倒れているトーラ・ネコラフは、明らかに死んでいるとしか見えようがないのに。

 出血多量及び、毒死なのに。

 だから、警察たちがトーラ・ネコラフを死んではいないと思っているその様子もあまりに変なのだが、さらに可笑しなことには、誰もが少し怯えている様子に見えたことである。それは、やはり、異常な光景だった。トーラ・ネコラフは、背が高く、鍛え抜かれた体つきをしていたが、彼を取り押さえるのにごっつい体格の警察官たちが五人も必要かと問われれば、そうだとは思えなかったからである。ましてや、彼らが怯える必要などないはずだった。むしろ、この状況ならば、普通はトーラ・ネコラフの方が、怯えなければならないだろう(もし、意識を失っていなければの話だが……)。

「もし……、こいつが意識を失っていないとしたら?」と、黄色い制服の警官が言った。「その時は、リヨンに連絡することになっている。リオナ・リヨンを引っ張り出してくるしかないよ」と、赤色の制服の警官が言った。

「しかし……、あいつが来るとは思えないが……」と、青色の制服の警官が言った。

「そう決まっとるんだから、そうするしかないじゃないか」と、黒色の制服の警官が若干怒り気味に言った。

 しばらく彼らは怯えながらもゴチャゴチャと雑な言葉を言い合っていたが、白色の制服の警官だけは、何も言わず、四人の話の中にも入ってはいかなかった。いや、よく見ると、白色の制服の警官は、彼だけは、他の四人の警官たちとは決定的に雰囲気が違った。

 しかし、よく見ると……、なのである。

 よく見なければならないのである。


 すると、見えるのだ。


 彼はトーラ・ネコラフに対して怯えている様子もなかったし、むしろ、トーラ・ネコラフのことなど見てすらいなかったことが。彼の青い、美しい目は、どこかの遠い彼方でも見つめているように見えた。しかし、よく見なければ、彼が見えないのである。この白い服の男はどうも異質な存在感を放っている。


 すんごい光り輝いているのだ。

 異常なのである。

 この男。

 いや、女かもしれない……。

 女性かもしれない。

 フェメールかもしれない。

 フェメール……?。

 しかし、よく見なければいけない。

 よく見なければ、彼、あるいは彼女自体が見えないのであるから。

 こんなに光り輝いているのにだ。

 なぜなのかは、わからない。

 それを聞かれても、答えられない。

 あるいは、「そういう設定だからだ」と、本当のことを言うしかない。

 しかし、それはいい。

 そして、他の警官たちは、普通に見える。

 そういう設定だからだ。

 彼らの髪の色は、黒か茶色だった。

 いや、そんなこともいいのだ。

 ただ、もっと特徴的だったのは、その長さだった。

 その特別な存在感を遺憾なく放ち続けている男の、あるいは女の美しい金色の髪は、その腰の辺りまでの見事な長さを誇っていたのである。

 しかし、それがまた、その人には何の違和感もなく、むしろ、当然そうあるべきとでもいうほど、とても似合っていた。

 どう見ても際立った、只者ではない雰囲気なのに、同時に彼は、いや、彼女はどこにでも自然に溶け込める。

 よく見なければ、そうなのだ……、よく見なければ、彼女の存在自体が全く見えないくらいだった。

 いや、見えないのである。

 しかし、よく見れば、明らかに際立っているのである。


「雪だ……」トーラ・ネコラフは、五人の警官たちに意識を失っていると思われている状態の中で、一人考えている。身動きもせず、心の中で。その彼の心の目が見ているのは、金髪のフェメールだけである。際立ったフェメール。

 それは、もうフェメールだった。

 コティロリーザツベルクラータだった。

 焦点は、長い金髪の、白い制服の、その異質な存在感を放ち続けている彼女にのみ注がれている。そして、トーラ・ネコラフは、その金髪の彼女に対して「雪だ……」と、言っているのである。心の中で。それに、金髪の彼女も答えている。

「そうよ」と。

「目を覚ましてはいけないわ。このまま、意識を失った振りをしているのよ」と、金髪の彼女はトーラ・ネコラフに言っていた。

 心の中で。

 それが、トーラ・ネコラフにはわかる。

 伝わる。

 トーラ・ネコラフは、また「雪だ……」と、言った。

「雪じゃないわ。私は、クラゲよ」と、彼女は言う。

 トーラ・ネコラフは、ギクッとする。

 しかし、「私よ……」と、彼女は続けて言う。

「コティロリーザツベルクラータよ」と、彼女は言う。

 そう。

 彼女は、コティロリーザツベルクラータだった!

「コティロリーザツベルクラータ?」

「ええ。コティロリーザツベルクラータですわ」

「コティロリーザツベルクラータねぇ……」

「コティロリーザツベルクラータだわ」

「そのコティロリーザツベルクラータが、なんで人間の格好をしているんだい?コティロリーザツベルクラータは、地中海に生息するクラゲの名前じゃないか」と、トーラ・ネコラフは努めて平静になって言うのだった。

「おっしゃるとおり……」と、コティロリーザツベルクラータは感心したように満足げに答えた。


 同時進行。別世界。死後。


 再び、現実から離れ、死後の世界へ。

 死後の世界とは言っても、それはこの物語の中での死後の世界だ。要するに、批判のされようのない、都合の良い世界だ。そこに、アンストン・ウェクアージュアとコティロリーザツベルクラータがいる。こちらは、よく見なくても、明らかにコティロリーザツベルクラータがいる。そして、彼女は笑っている。

「私が、雪に見えるの?」と、コティロリーザツベルクラータは言った。

 アンストン・ウェクアージュアは、別に彼女が雪に見えるとは思ってもいなかったし、考えてもいなかったが、よく見れば、あるいは雪に見えないこともないだろうと思った。

 白く、小さく、可愛く、揺蕩うそのクラゲは、今は人間の女性の姿をしているが、地中海に生息するコティロリーザツベルクラータというクラゲを彼は実際に知っていたのだ。

 つまり、彼は実際のコティロリーザツベルクラータを知っていた。なんなら、彼は、コティロリーザツベルクラータの写真を何枚も撮っていた。彼は、水族館に一人で何度も通っていた時期があった。彼は、本を読むこと(特に小説)と、写真を撮ることが好きだった。

 友達もほとんどいなく、恋人はこれまでの三十四年間で一度だけ、大切な人ができたことがある彼だった。その頃はまだトーラ・ネコラフだった彼は、コティロリーザツベルクラータの写真を、水族館で夢中になって何枚も撮っていた。

「雪と言うより、目玉焼きだよ」と、今は、アンストン・ウェクアージュアである彼は、言った。

 確かに、そうである。

 コティロリーザツベルクラータは、別名フライドエッグジェリー(目玉焼きクラゲ)と呼ばれているのである。

「しかし、その可愛さ、美しさには、変わりがない。何よりも、名前が素晴らしいのさ。コティロリーザツベルクラータという名前は、とても素敵だ」と、主人公は恥ずかしげもなく言った。

 生前の彼には考えられなかった発言である。

 彼は、自分に自信がなかった。

 思っていることを言えなかった。

 人の目を見れなかった(それは、他人を馬鹿にしているということでもある。実際、彼は、他人をあまり高く買っていなかった。結局、それが、自信のなさに繋がるのである。しかも、それは、偽りの自信のなさだ。なぜならば、それは、他人が自分のことを高く評価しないだろうという、他人に対する嘲りから生まれているからである!!)。

 今だって、こんな軽はずみな言葉を言ったら、キザだとか、薄っぺらいだとか、軽薄だとか、面白くないとか言われるんじゃないかと思ったが、そう思ったからそう思ったことをただ言っただけだった。

 何が、悪い、だった。

 別に、もう、いい、だった。

 アンストン・ウェクアージュアは、生前の彼よりも、直截的な存在になっていた。

 言いたいことを、思ったことを、曲げたり、隠したりすることはしない存在になっていた。 それは、あるいは、彼の体がないからなのかもしれない。

 彼を、人間というカテゴリーの中に収めることができない存在になったからなのかもしれない。

 人間の姿を失った彼を、人間が裁くことはできないからなのかもしれない。

 とにかく、彼は、生前の彼よりも直截的な存在になっていた。

 実際、彼は、目の前にいる人間の女性の姿のコティロリーザツベルクラータを、最初から美しいと思っていた。

 ふむ。

 彼の心は、一筋縄ではいかない。

 非常に捩(よじ)れているし、屈折している。

 一言で言えば、かなりタチが悪い。

 ちなみに、『直截的(ちょくせつてき)』とは、「物事を遠回しではなくはっきりと言う様子のこと、を意味する表現」だそうである(Weblio辞書より)。


 同時進行。新たな世界。リオナ・リヨンと、ディプルマティス・アンタークティカ。


「おい、お前。こら。こっちを向けよ……」と、リオナ・リヨンは言っている。

 誰に?

 クラゲにである。

 そのクラゲは、アミストロットベクヤーダの町の上空で不気味に漂っている大量のクラゲ雲のなかで開かれているクラゲ会議、『New Fantasy Spectacle ニューファンタジースペクタクル(以後、NFSと呼ぶ)』の最後のゲートを守っている、あの守衛役のディプルマティス・アンタークティカだった。

 しかし、ディプルマティス・アンタークティカは、リオナ・リヨンの声はさっきから嫌になるほど聞こえているのだが、最初から最後までずっと、彼の声など聞こえない振りをすることを押し通し続けていた。

 だから、彼はそっぽを向き続ける。

 そして、守衛役のディプルマティス・アンタークティカがリオナ・リヨンの存在を認めない振りをし続ける限り、リオナ・リヨンはいつまで経ってもゲートを越えて、コティロリーザツベルクラータやアンストン・ウェクアージュアのいる別世界へと辿り着くことはできないのである。

 それを、リオナ・リヨンも、ディプルマティス・アンタークティカも、知っている。

「おーい、こーら、おま、お前……、こっ……」プツン。

 まだ、新たな世界は早かったようである……。


 同時進行。NFS。スティギオメデューサ・ギガンティアたち。


 NFSのゲートで、リオナ・リヨンとディプルマティス・アンタークティカとのやり取りが上手く行われないまま、それでも、物語は前に進む。同時進行で、三つの世界が動いている。

 一は、主人公とコティロリーザツベルクラータのいる死後の世界。

 二は、五人の警察官たちがいる現実のアミストロットベクヤーダの世界。

 そして、三は、まだ少しも動き出そうとはしないが、存在し始めたリオナ・リヨンとディプルマティス・アンタークティカのいる、別世界へと繋がる最終ゲートのある世界。

 それは、NFSが開かれているクラゲ雲の中の世界。

 つまり、スティギオメデューサ・ギガンティアたちがいるクラゲの世界でもある。

 だが、問題は、新しい物語が、どの世界でも一向に始まってなどいないことである。

 しかし、この物語を企画、設計したクラゲたちは、特に主犯の超巨大クラゲであるスティギオメデューサ・ギガンティアは、一向に焦ってはいなかった。

 クラゲたちは、トーラ・ネコラフが死んだというそのこと自体に、満足していたからである。

 はっきり言うと、彼らが書いた台本は、トーラ・ネコラフが死んだ時点ですでに完結しているのである。彼らは、トーラ・ネコラフを殺した。そういう台本だった。だから、トーラ・ネコラフが死後の世界で、アンストン・ウェクアージュアになっていることは、コティロリーザツベルクラータ以外のクラゲは誰も知らない。

 知る必要もなかった。

 クラゲたちは、ただ、トーラ・ネコラフの体を手に入れることができれば、それで良かったのだから。

 そして、トーラ・ネコラフの体をクラゲたちが手に入れる直截的な方法は、トーラ・ネコラフの死体を『食べる』ことだった。それによって、クラゲたちの企画、計画は、完了するのだった。しかし……。

 いつまで経っても、クラゲたちは、トーラ・ネコラフの死体を『食べる』ことができなかった。

 あれほど呑気(のんき)に構えていた超巨大クラゲのスティギオメデューサ・ギガンティアも、ここに来て、ほんのついさっきに、やっと、気がついたのである。

 何に?

 クラゲたちの書いた台本に、致命的な欠陥があったことにである。


 結論から言うと、トーラ・ネコラフは、死んでいない。アミストロットベクヤーダの町で、彼は、死んだように生きている。それは、傍目には、死んだように見えるだけである。どう見ても、死んだようにしか見えないだけである。なぜなら、トーラ・ネコラフは、出血多量及び、猛毒に犯されているからである。しかし、彼は、死んでいない。


 この世界は、常にアップデートされる。

 言い換えれば、常に、書き換えられる。

 この世界は、非情で、言葉を紡いだ者勝ちだ。そこに、新たな概念が生まれる。そして、人々はその概念に否応なく縛られる!!!

 生きづらい世の中なのは、そのせいである。


 クラゲたちは、『食べた』はずだった。トーラ・ネコラフの体を。しかし、その物語を書かなかったクラゲたちは、いつまで経っても、トーラ・ネコラフの体を『食べる』ことはできなかった。

 そのうちに、この世界に、新たな登場人物たちが現れた。

 五人の警察官たちである。

 彼らは、トーラ・ネコラフが死んでいない物語を作ろうとした。

 そして、実際に、その物語を書いた。

 トーラ・ネコラフは強くて、危険で、ただ、意識を失って倒れているだけ。

 もし、トーラ・ネコラフが意識を取り戻したら、「リオナ・リヨンを呼ぶしかない!!」とも、叫んでいた。


 クラゲたちの作った台本は、トーラ・ネコラフが倒れた時点で、終わっていた。

 だから、トーラ・ネコラフは、死んでいないのだ。

 トーラ・ネコラフは、ただ倒れているだけである。

 そして、新たな物語がいくつも生まれてしまったのである。そのことにクラゲたちが気づいたのが、つい先ほどである。

 

「なぜ、ここに、警察がいるのだ??」だった。

 クラゲたちの書いた台本に、警察たちは、存在していないのだから。


 この世界は、常にアップデートされる。

 言い換えれば、常に、書き換えられる。

 この世界は、非情で、言葉を紡いだ者勝ちだ。そこに、新たな概念が生まれる。そして、人々はその概念に否応なく縛られる!!!

 この世界は、無茶苦茶だ。正しいことが、間違いになる。間違いが、正しいことになる。そして、それが、いつでも、すぐに裏返る。言葉と、概念と、人の心を操ることによって。

何が正しいのかは、他人や世界に委ねてはいけない。何が間違っているかということも。


 しかし……、その声は、クラゲたちにも警察官たちにも聞こえない。ほとんど、誰にも届かないし、響かない。批判される可能性の方がずっと高い。すでに、世界のルールが決まっているとしたらだ。ところで、クラゲたちの話に戻ろう。クラゲたちも、いつまでも、ここに留まるわけにはいかなかった。台本にないのならば、新しく作ればいいだけの話である。クラゲたちは、さっきまでの余裕はかなぐり捨てて、慌てて、しかし、新しい物語を作り始めたのである。

 そういう次第で、スティギオメデューサ・ギガンティアたちは、ここに来て、ついに動き出した。

「回収しに行く!!!」と、スティギオメデューサ・ギガンティアは、取り巻きのクラゲたちに言った。この急展開。興醒めだろうと、何だろうと、構わない。そうだ。そうだ。取り巻きのクラゲたちも口々にそう言う。そして、動き出す。動かなければ始まらない。そして、動く。自分が良いと思ったことはやってみる。たとえ、強大な世界に速攻で叩きのめされても。あるいは、叩きのめされないで、行動に移す。新しい表現方法を見つけることによって。いずれにしても、じっとしているわけにはいかない。だから、スティギオメデューサ・ギガンティアは、もう一度言う。「回収しに行く!!!」と。「ごおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」と、雄叫びも上げてみる。クラゲだって、ファンタジーの中では雄叫びくらい上げられる。

 そして、雲は震える。

 凍りつく。

 いずれ、雪が降るだろう……。

 ところで、NFSは、大変に広い空間である。乱れた大気の全てを支配していると言っても、何のことかはわからないが、しかし、とにかく広いのである。

 空が広い。

 海も広い。

 世界も広い。

 だから、とにかく広いのだ。

 好きなことをやればいい。

 何よりも大事なのは、自分が本当に大事だと思ったことをやることだ。

 それ以外のことなど、どうだってもいい。

 答えは、自分で見つけるんだ。あるいは、自分で作り出すんだ。

 自分の道は、自分で見つけ、自分で切り開くんだ。

 そして、その道を、前に進むんだ。

 雑でも、何でも、前に進むことは、間違ってはいない。

 前に進めなくなることが、終わりだとしたら。 

 いや、違う。

 前に進むことを約束したのならばだ。

 いや、もっと言えば、夢や、目標があるのならばだ。

 行かなければいけないのだ。

 新しい物語は、自分の力で作らなければならない。

 そして、それを、待っている人がいるとしたら?

 行くしかないだろう。

 だから、前に進むしかないのだ。

 そして、クラゲたちが、武装し始める。

 なぜなら、今、トーラ・ネコラフの倒れている体を取り囲んでいるのは、屈強な体格の五人の警察官たちだからである。

 何度でも言うが、これは、予定外だった。

 台本にない物語だった。

 警察官たちは、クラゲの企画、設計した台本には存在しなかったのだ。

 クラゲたちが、トーラ・ネコラフの体を手に入れるためには、なぜか警察官たちと戦わなければならない状況に陥っている。

 しかし、スティギオメデューサ・ギガンティアは「回収しに行くぞ!!!」と言った。

 前に進まなければならない。

 クラゲたちは覚悟を決めた。

 NFSバーサス現実。

 それは、クラゲVS警察の構図だ。

 コティロリーザツベルクラータは、この構図からいち早く逃れた。

 そして、彼女は、死後の世界にいる。

 主人公のアンストン・ウェクアージュアの側にいる。

 しかし、トーラ・ネコラフは死んではいないのだ。

 だとしたら、アンストン・ウェクアージュアとは、誰か?

 そして、主人公とヒロインのいる世界は、死後の世界ではないことになる。

 リオナ・リヨンは、現実の警察側の人間だった。

 しかし、彼は、人間の世界を超越してしまった。

 なぜか、のっけから、彼はNFSの最終ゲートにいるのだから。

 そして、リオナ・リヨンとディプルマティス・アンタークティカもまた、それぞれで新しい物語を作ろうとしていた!

 アンストン・ウェクアージュアと、コティロリーザツベルクラータも、必死で新しい物語を作ろうとしていた!!


 続。NFS。スティギオメデューサ・ギガンティアたち。


「行くって、言ったって、親方……」と、スティギオメデューサ・ギガンティアに向かって、アトランティック・シーネットルというクラゲが口を挟んだ。

 ついでに彼は、小さくため息もついた。

 アトランティック・シーネットルは、強い毒を持ったクラゲである。

 この物語で、アトランティック・シーネットルは、『親方』のスティギオメデューサ・ギガンティアの『右腕』としての役回りを与えられている。

 アトランティック・シーネットルも、その今回の『役回り』に、渋々ではあるが、同意してくれた。

 先ほどの話だ。

 ついさっきの話だ。

 世界は常に、書き換えられ続けるから。

 突然の出演依頼に、アトランティック・シーネットルは、応じてくれたというわけである。

 もちろん、この新しい物語は、彼の出演を喜んでいる。

 それに、アトランティック・シーネットル自身も、まんざらでもなかった。

「ま、主役じゃないのは気が進まないけどね。なんで、スティギオメデューサ・ギガンティアが俺の『親方』になるんだか、意味がわからないけどね。俺の自慢の『毒』を見込んでのキャスティング依頼だからな。悪い気はしないよ。で、俺は、あいつを『親方』って呼びゃー、いいんだろ?親方ねえ……。親方、親方……。ま、良いか。やるよ。やりますよ。行くって、言ったって、親方……、ってね。はぁ、……さ、ため息もついたことだし、行きますか……」だから、彼は、その強い毒で、スティギオメデューサ・ギガンティアの代わりに、現実の世界の五人の警察官たちを殺そうとしていた。

 それは、新たな台本である。

 前述のとおり、クラゲたちは、三つの同時進行の世界の中で、いち早く新しい物語の台本の制作に取りかかっていた。

 自分たちが作った初期の台本の欠陥も認めた。それでも前に進むことを選んで、実際に前に進んでいる。

 アトランティック・シーネットルのキャスティングにも成功した。

 しかし、彼の毒は、『強い』とはいえ、五人の人間を殺せるだけの強さがあるかと言われれば、それにはかなり疑問があった。

 そもそも、アトランティック・シーネットル自身にしても、自分の持っている毒が、どれほどの『強さ』を持っているものなのかということを、よくわかってはいなかった。

 むしろ、それを知っているのは、クラゲたちではなくて、一部の人間であって(研究者や専門家など)、アトランティック・シーネットルは、毒は持っているが、知識は持っていなかった。

 むしろ、クラゲたちは、『脳』を持っていない。

 そもそも、クラゲたちは、言葉を持っていない。

 しかし、このファンタジーストーリーでは、そんなことは、もちろん気にしない。

 そんなことを気にしていたら、この物語は、そもそも書けないのだ。

 この物語は、クラゲたちが企画・設計したのだ。

 台本があるからには、言葉がある。

 クラゲたちは、言葉を持っている。

 書かなければいけない物語は、書かなければいけない。

 たとえ、それが、どんなに稚拙であろうとも。

 前に進もう。

 いや、前に進むのだ。

 前に進む。


 同時進行。現実世界。警察たち。


「リヨンを、呼ぶしかない!!!」

「しかし、あいつは、答えない!!!」

「あいつは、今、どこにいるんだ?!!!」

「リオナ・リヨンを、指名手配にしろ!!!」と、現実世界では、四人の警察官たちが声を荒げてリオナ・リヨンのことで騒ぎ立てていた。

 早速、NFSからの刺客が現実世界の四人の警察官たちの前に現れたからである。

 それは、アトランティック・シーネットルだった。

 彼は、トーラ・ネコラフの姿そのままで、警察官たちの前に現れたのである。

 だから、警察官たちは、トーラ・ネコラフが意識を取り戻したのだと思った。

 そう。

 なぜか、警察官たちは、トーラ・ネコラフが意識を取り戻すことを、とても恐れていたのだから。

 それで、彼らは、彼らの台本に忠実に従わなければならなかった。

 恐れた。

 それが、アトランティック・シーネットルだということなど考えも及ばずに。

 思うに……、世の中は、考えの及ばないことばかりではないだろうか。

 実際、何が、いつ、どうなるかなんて、これまでの経験やデータからの予測でしかない。

 しかし、そんな言葉も、もう古い。

 救いは、一体どこにある?

 血を吐くくらいに努力したからといって、報われるわけでもない。

 勝手に作り出された世界とその無茶苦茶な世界のルールと支配に翻弄されるのは、我慢のならないことだ。

 だから、自分で作り出すしかない。

 自分を信じることができれば、それは可能だ。

 言葉は、欺瞞だ。特に、この物語の言葉は。特に、この先の言葉は。

 いや、話を元に戻そう。

 今、ここで、クラゲが雪のように空から降ってくるなんて、誰が想像できるだろうか?

 想像できたとしても、そんなことは、絶対にあり得ないと、一蹴されるだろう。

 しかし、それは、絶対にあり得ないことでは、ないのである。

 この物語で、コティロリーザツベルクラータの雪は、絶対に降る。なぜ、そのようなことが言えるのか?簡単な話だ。すでに、物語は、完成しているから、つまり、どんなに稚拙で独り善がりであろうと、自分で作り出したから、作ったから、作り上げたから、言えるのである。

 しかし、確かに今ではない。だから、今は、今の話を進める。

「何をゴチャゴチャ言っているんだ??」と、四人の警察官たちが、一人の警察官に言っている。

 白い服を着たあの金髪の警察官にである。

 彼女は、コティロリーザツベルクラータである。

「いいえ、何でもありませんわ……」と、彼女は言う。

「それより、今は、この毒クラゲをぶっ倒すことが先決ですわ」と、彼女は少し汚い言葉を使って言った。

「毒クラゲだって?」と、もちろん四人は疑問に思う。目の前にいるのは、トーラ・ネコラフだからである。これが、クラゲだったらと思うと、ちゃんちゃら可笑しい。そんな人を馬鹿にしたような世界、絶対にあり得ないじゃないか。

 しかし、あり得るのである。それに、この物語の言葉は、嫌になるくらいに欺瞞に満ちている。

「だから、これは絶対にあり得ない物語だって、最初っから言っているじゃありませんか……」と、コティロリーザツベルクラータは警察官たちに言っているが、警察官たちはもう彼女の言葉など聞いてもいなかった。

 ところで、アトランティック・シーネットルはアトランティック・シーネットルで、ここで次にどう動いて良いものか全くわからなかった。

「ほんとに、なんちゅう世界だ……」と、彼は、呟いている。

 全く、その通り。コティロリーザツベルクラータも、さすがにこの状況には悲しくなった。「結局、こういう物語しか、私には書けなかったわ。ごめんね……」と、彼女は小さな声で呟いた。

 アトランティック・シーネットルにとっては、せっかくこの物語の悪の親玉であるスティギオメデューサ・ギガンティアの『右腕』という役回りでキャスティングされたのに、蓋を開けてみれば、なぜかトーラ・ネコラフの姿に扮して登場しているのである。

 そして、一体何をしていいのかもわからない有様だ。

 お粗末にも過ぎる台本のせいで。

「そして、今がチャンスなんです。この世界は、常にアップデートされます。言い換えれば、この世界は常に書き換えられ続けます」と、コティロリーザツベルクラータはまた呟いた。

 四人の警察官たちは、聞いていない。

 アトランティック・シーネットルにしても、聞いているのかいないのかわからなかった。

 しかし、アトランティック・シーネットルは、こう言ったのだ。

「ならば、俺も、俺の物語を作るかな……」と。

 それは、つまり、誰かに操られるということではない。

 だから、アトランティック・シーネットルは、何の未練もなく、この場を去ったのである。

 残されたのは……。四人の警察官と、コティロリーザツベルクラータ。そして、出血多量と猛毒に犯されて倒れているはずの、トーラ・ネコラフだった。


 トーラ・ネコラフは、トーラ・ネコラフで、彼の物語を考えていたはずである。

 そのために、彼は死んでもいないのに、死後の世界に行ったのだ。

 つまり、彼は、自分で作ったのだ。

 その世界を。

 そこには、コティロリーザツベルクラータもいた。

 そして、すでに二人は、その物語を完成させていたのである。

 それを、ここに無理矢理ねじ込んで、この物語は、ついに終わる。

 警察たちは、もういない。彼らも、この物語から立ち去った。

 いるのは、トーラ・ネコラフとクラゲたちである。


 同時進行。現実世界。トーラ・ネコラフ変身。


 トーラ・ネコラフは、立ち上がった。そして、次々と大量のクラゲたちを、ぶっ倒していった。

 トーラ・ネコラフは、怒っている。激怒している。彼は、夢から覚めた。悪夢は悪夢。現実は現実。彼は、強かった。彼は、想像を遙かに超える強さを発揮した。


 トーラ・ネコラフは、立ち上がって、狼のような顔つきに変わっていた。

 彼は、変わった。

 トーラ・ネコラフは、『トラ』でも、『ネコ』でもなく、『オオカミ』になった。

 クラゲを倒すために。彼は、真剣に考えたのだ。全ては、クラゲを倒すため。

 だから、彼は、四つ足で立っている。その大きな身体中を邪気と殺気にまみれさせ、白い獣毛に鎧われて。

 もはや、彼を止めることなどできない。

 整合性と必然性は、完全に無視だ。

 オオカミになった彼は、恐ろしく冷たい目で、クラゲたちを見つめている。

 クラゲたちは、もちろん、ウジャウジャとこの現実のトーラ・ネコラフの部屋にいる。

 あの時と同じだ。

 しかし、今は、もう、状況は決定的に違うのだ。

 もう、負けない。

 そのために、彼は、トーラ・ネコラフは、自ら死後の世界に赴いて、現実の世界で自らがオオカミになってクラゲたちをぶっ倒す物語を考えてきたのだ。

 もう、クラゲたちの思うようには、させない。

 させて、たまるか。

 誰かに操られるのなんて、まっぴら御免だった。

 自分の物語は、自分で作る。

 だから、その目は、鋭くクラゲたちを睨みつけ、その体は、息をする間もなく、まずは目の前のクラゲに襲いかかった。

 その目を付けられたクラゲが思わず「ギョッッヘ……」と言った時にはもう、オオカミのトーラ・ネコラフの顔は目の前にあったのだ。

 とても、その動きを捕らえることなどできない。

 オオカミは、四つん這いの姿勢からすでに、二本足で立つ姿勢に変わっている。

 すると、両手ができる。

 そして、もちろん、その拳がクラゲの体の中心をぶち抜いた。

 ありったけの怒りを込めて。

 二度と、繰り返すものか。

「破裂しろ……」トーラ・ネコラフは、冷たく吐き捨てた。 

 そして、途方もない音がした。 

 鈍く、爆発する、轟音が。

 クラゲの体は破裂した。

 同時に、その破裂したクラゲの体は、巨大な赤い花火となって、高く宙に打ち上がっていった。

 また、途方もない音がした。

 今度は、盛大に、爆発する、轟音が。

 それは、次々に、破裂していき、打ち上がっていった。

 オオカミのトーラ・ネコラフが、とにかく大量のクラゲたちをぶっ倒していったからである。

 その度に、クラゲたちは、色とりどりの花火となって、空に打ち上がり続けた。

 高く、高く、高く。

 夜空を彩る。

 なぜなら、すでに、この部屋には天井などないのだから。

 なぜなら、すでに、時は、夜なのだから。

 つまり、死んだはずの午後を突き抜けたのだ。

 死んでなんかいない。

 生きている。

 そして、この夜を越えれば、また新しい朝が来るのだ。

 だから、上を見上げれば、美しく盛大に打ち上がり続けている花火と、さらに、その先には、花火に照らされて浮かび上がっている、ギョッとするほどの大量のクラゲ雲である。

 クラゲたちは、次々と空からやってきた。

 その度に、トーラ・ネコラフにぶちのめされては、花火に変わって空に戻っていったのである。

 それは、果てしなく繰り返された。

 ここは、すでに、部屋ですらなかった。

 戦場である。

 アミストロットベクヤーダの町は、戦場となった。

 もう、ベッドもない。

 ドアもない。

 部屋じゃない。

 戦場のアミストロットベクヤーダの町。

 そして、上空には打ち上げられ続ける花火とクラゲ雲。

 ニューファンタジースペクタクル。

 つまり、NFSだ。

 奴らも、まだこの物語の実権を握ろうと躍起になっている。

 クラゲたちは、ゴチャゴチャと台本を書き続けている。

 だから、いくらトーラ・ネコラフに叩きのめされて、宙に花火となって打ち上げられても、いくらでも空から新たなクラゲたちがやって来る。

 この世界は、常にアップデートされる。

 この世界は、非情で、言葉を紡いだ者勝ちだ。

 そこに、概念ができる。

 人々は、その概念に縛られる!!!

 トーラ・ネコラフの部屋は消えた。

 トーラ・ネコラフはオオカミになった。

 クラゲたちをどんどん倒し続けた。

 そういう物語にしたかったのだろう。

 もう、負けるのは、いやだったのだろう。

 クラゲたちも、もう、諦めたのだ。

 いつまでも、いつまでも、執拗に執念深く、ただただトーラ・ネコラフは勝ち続けたから。


 クラゲたちは、撤退した。

 いつのまにか、空は静かになっていたのに、トーラ・ネコラフは気づいた。

 もう、誰も、いない。大量のクラゲたちも、いつもずっと側にいてくれたコティロリーザツベルクラータも消えていた。

 そして、新しい朝が来た。


 同時進行。現実世界。リオナ・リヨン、降臨。


 その時である。

 リオナ・リヨンも、現れたのは。

 アミストロットベクヤーダの町の上空は、NFSだったが、もはやその大量のクラゲ雲は、消え去った。

 しかし、そのかわりに、空はあまりにも眩しく光り輝いていた。

 そして、何かが、ゆっくりとこの町に、この悲惨な戦闘が突然繰り広げられてしまったアミストロットベクヤーダという戦場に、光を纏いながら、ひらひら、ひらひらと、落ちてきた。

 それは、二人の男たちだった。

 どちらも背が高く、若く見えた。

 ゆっくりと、重力を無視して、二人の男たちは、落ちてきた。

 もちろん、一人は、リオナ・リヨンだった。

 そして、彼は、ディプルマティス・アンタークティカとともに、アミストロットベクヤーダの町に舞い降りたのだ。

 ひらひら。ひらひら。と……。

 彼らも、彼らの物語を紡いでいたから。


 そして、また新たな轟音が鳴る。

 リオナ・リヨンが、銃を撃ったのだ。

 悲しい音がした。

 全てが、高速で過ぎ去っていく。

 何も、誰にも、知らされずに、世界は、変わった。

 とにかく、高速で過ぎていく。

 急展開なんてものじゃない。

 決然と、あるいは、冷酷に、確実に何か大切なものを無視しては、無情に世界は変貌していくのである。

 弾丸は、トーラ・ネコラフには当たらなかった。

 しかし、また轟音は鳴る。

 それは、また虚しくこの町に響き渡る。

 何度目の轟音だろう。

 すぐに弾は尽きた。

 その時、オオカミは、リオナ・リヨンに飛びかかった。

「次は……、なんだよ……」と、トーラ・ネコラフはリオナ・リヨンをきつく睨んだ。

 やっと、クラゲたちを倒したのだ。

 もう、彼には、物語がなかった。

 新しい朝が来た。

 それなのに、リオナ・リヨンたちは、物語を紡いでいた。

 結局、また誰かに持っていかれるのか……。

 トーラ・ネコラフは力なく呟いた。

 しかし、こうなってはもう、戦うしかないのだろう。

 リオナ・リヨンと、ディプルマティス・アンタークティカの二人が、オオカミのトーラ・ネコラフの前に立ちはだかる。

 ちなみに、ディプルマティス・アンタークティカは、重厚な鎧を身につけた、若い男の戦士の姿になっていた。

 長い槍を持っている。

 なかなかに男前である。

 一方のリオナ・リヨンは、黒いスーツに、金色のネクタイ、そして、赤いマントを羽織った、現実離れをした格好をしていた。

 まるで、人を相手にしていないような。

 風が吹く度に、赤いマントはシュールにひらひら、ひらひらと、揺れ続けていた。

 彼の金色の長い髪も風に揺れた。

 確かに、ここには、風が吹いている。

 マントが揺れる速度も段々と上がってきた。

 激しさを増す。

 強い、風だ。


「さ。ここが、最終決戦だよ」と、ふざけた格好をしたリオナ・リヨンがオオカミに向かって言った。

 オオカミは、標的を見つめている。

 何か、言葉を考えているようだ。

 しかし、もはやオオカミは、言葉を失ってしまっていた。

 彼は、ただのオオカミ。クラゲを倒し終えた彼は、もはや、ただ強いだけの存在だ。


「何かを得るには、何かを捨てなくてはいけない……。本当にそうだろうか?」と、リオナ・リヨンは言った。

「世界は、変わってしまったな……」とも、リオナ・リヨンは言った。

 オオカミは、それには答えない。

 やはり、もう、戦うしかなかった。

 リオナ・リヨンは突然現れて、意味のわからないことを言っているから。

 それに、今や目の前にいる者は、全て、このオオカミにとっては敵だった。

 だから、飛びかかる。

 オオカミは二本の後ろ足で地面を蹴って、跳躍する。

 口を大きく開けて、牙をむき出しにして、リオナ・リヨンに飛びかかる。

 最初の攻撃は、空を切った。

 リオナ・リヨンの動きも、オオカミと同じくらいに速かったから。

 一人と一匹は、上空で相まみえ、一瞬でそれぞれに逆方向に飛び退(しさ)る。

 リヨンは、スーツ姿に、赤いマント、金色のネクタイ姿なだけではなく、その手には剣を持っている。

 もう少し、マシな物語を考えつけなかったのだろうか。

 一方、オオカミのトーラ・ネコラフの方はもちろん、素手だ。

 素手だが、彼は、ビーストの力を持っている。

 野獣の力を。

 全身を白く輝く(あるいは、銀色の)もふもふの毛皮に覆われながら……。

 そして……。


 時間切れだった。


 上空からは、またもやたくさんのクラゲたちが、トーラ・ネコラフとリオナ・リヨンの戦っているアミストロットベクヤーダの町をめがけて、続々と舞い降りてきた。先ほど、人間のリオナ・リヨンが空から落ちてくる時でも、ひらひら、ひらひらと落ちてきたのだ。今回は、クラゲもそうだった。たくさんのクラゲたちが、空からひらひら、ひらひらと落ちてきたのだ。あれだけ、必死になってクラゲたちを倒したのに。しかし、もし、それが、全てコティロリーザツベルクラータだったとしたら?もし、それが、全てコティロリーザツベルクラータだったならば、白くて、小さくて、可愛くて、可憐な雪が、空からひらひら、ひらひらといつまでも降ってくることになるだろう。実際、そうなった。空から、コティロリーザツベルクラータの雪が、ひらひら、ひらひらと、いっぱいに降ってきたのだ。そして、そのコティロリーザツベルクラータの雪は、降り積もる。この世界の上に、いっぱいに降り積もる。この世界を、すっぽりと覆う。大量の、いや、甚大な量の、あり得ない量の、コティロリーザツベルクラータの雪が、全てを白くした。そこに、また新たな物語が生まれるように。コティロリーザツベルクラータの雪が、いつまでも優しく、降り続けてくれるのだ。


 スティギオメデューサ・ギガンティアは、深海の奥の奥にその立派な巨体を揺らめかせている。

 ディプルマティス・アンタークティカは、若くてかっこいい男の戦士になっていた。

 アトランティック・シーネットルは、自らで自らの物語を作ろうと思った。

 そして、コティロリーザツベルクラータは、世界の終わりそうなどうしようもない時に突然現れて、その世界を真っ白に埋め尽くして、「また新しい物語をつくるのです」と、言って、最後までトーラ・ネコラフに寄り添ってくれた。


 この物語を書き終えて、「クラゲたちに怒られなければいいのだが……」と、トーラ・ネコラフは呟いた。

 そして、トーラ・ネコラフはまた、別の『新しい物語』を、書き始めるのだった。(了)



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