困惑と萎縮と恥を一緒くたにした表情に笑顔をのせた母は「迷惑をかけないように」と私に言った。絶対的な母はもう居なかった。
入学前の春休みに、私を受け持つ担任の先生が我が家に来た。これからの高校生活にあたっての「事前相談」だ。50代の男性だった。新聞で取り上げられた輝ける私の「実態」もとい「様子」を見にきたのだ。
その先生は、何か私に話しかけたが私はまったく分からなかった。その様子をみていた母が、その会話をひきとった。
そのとき母は、困ったような悲しいような、それでいて、最低限の社交としての笑顔をふりかけのようにパラパラと顔全体にまぶした顔をしていた。私はその母の表情を初めて見たと思った。
その後は、母とその先生2人で話をしていた。内容はまったく分からなかったが、母は、私の障害とその程度を説明していることは分かった。
聾学校から一般高校に入学した日、入学式のとき私は親と一緒に保健室へ行った。学校の先生が連れていってくれたような気がする。保健室の先生は、肩より長い髪にパーマをかけていて、ふくよかな女性の方で、くりっとした眼をしていた。その先生は、私に話しかけてきた。その話し方はちょうどいい速さで、私はその先生の言っていることが分かった。聾学校以外の場で、親や親戚、聾学校の先生たち以外の人にもこんな話し方ができる人がいるんだなとも静かに驚いた。何を言われたかは覚えていないが、その会話が終わったあと、私は母をみやった。そのときの母の表情には既視感があった。またあの顔をしている、と私は思った。困惑と萎縮と恥と・・・それらが混じり合ったものに笑顔をトッピングした表情だ。その後、母と保健室の先生はひとしきり話をしていた。
高校に入学して1週間が過ぎた頃のことだ。私は夕食のテーブルについた。父はまだ帰宅しておらず、夕食の場には私と母と妹の3人だけであったと思う。私は母に向かって、つらい、などつぶやいた。母は、はっとし、またあの顔で私を見つめ返してきた。
私はすぐに言葉を継ぎ「やめないよ」と言った。母は「みんなに迷惑をかけないようにね」と、その表情のままで言った。母のそんな表情は私が聾学校にいたときはついぞ見たことがなかった。しかし、私が一般高校に入ってからは見る頻度が急増していた。それは私に懇願する形をとっているのかと思った。
私がそれまで知っていた「迷惑」という単語に、新たに意味が乗せられた。ここでの「迷惑をかけない」は、何もせずに黙って嵐を耐え忍ぶことなのだ。それきり、私はそのような類のつぶやきを吐くことはなくなった。
物心ついたときから、母は、圧倒的に「強い」存在であった。小学生の私は、母親に対して恐怖を感じることがあった。母がたまたま腕をあげただけでも、私は瞬時に首をすくめ身体を縮こまらせてしまう癖が小学高学年になっても抜けなかった。
私と妹、二人の聴こえない子どもを育てる母親。母は、聾学校の保護者からなる会で代表的な立場をつとめたこともあった。聾学校の中で強固たる人脈を持つ「目立つ」お母さんだったのではないか。
しかし、聾学校の外で、一般高校、「ふつう」の学校のなかで、見る母の表情は、聾学校のなかでは見たことのない輪郭をとっていた。
聾学校では「背が低くて、弁がたつ、本が大好きな女の子」のお母さんであっても、「ふつう」の学校では結局「耳の不自由な子」の母親でしかなかったろう。
一般高校に入学して半年くらいの間は、●●さんのお母さんと話したよ、と母は、クラス名簿順が近いクラスメイトの名前を2,3人あげてきた。漬物の話をした、と言っていたような気がする。しかし、母親同士の「社交」に対し、その子どものほうは、会話すらまったくできなかった。クラスメイトと簡単な会話を交わすことさえ私は非常な労力を払っていた。母親同士での社交と、その子どもたち同士の間の「社交」は連動していなかった。それは、聾学校のなかでは考えられない「関係性」であった。
なおかつ、その母親同士の「社交」は、聾学校の母親たちとの関係性よりは当然薄かったろう。聾学校の母親同士の関係は、「社交」という言葉では到底すくいきれない、「同志」「戦友」という何年ものの古漬けであった。一般高校のなかでの私の地位確保のために、母なりに気を張って社交につとめていたところもあったかもしれない。
いつからかは覚えていないが、少なくとも高校2年生の終わりごろから、私は反抗期を迎えた。そのころから私の身長は、母を追い越していた。妹にはもう身長を抜かれていたのだが。
母が言うちょっとしたことでもすぐに苛々し、無視し、反発していた。母と一緒に暮らしたくない、早く家を出たい、早く大人になりたいと思っていた。それでいながら、完全に独り立ちはまだできない自分を歯痒くもどかしく思っていた。母の「啓蒙専制君主」時代はとうに終わっていた。地元を離れた短大への進学は、まさに渡りに船だった。
高校の卒業式で、私は、仲良くしていたクラスメイトと、記念写真撮影をした。担任の先生とも記念写真撮影をした。卒業式に来た母は、担任の先生とも挨拶を交わした。何を話しているかは分からなかったが、私はもう気にならなかった。母は明るい顔をしていた。聾学校にいるときのように。聾学校の外で、母がそんな顔をするのを久しぶりにみた、と私は思った。
私と母の空間はほどよく切り離されていた。母はもう私の障害について説明しなくてもいいのだ。私が周囲にかけるかもしれない「迷惑」を考えなくてもすむ。
母も私と同じように、ようやく肩に背負っていた荷物を下ろせたのだと思った。
もう高校に行かなくてもいい。あとは家を離れるだけだ。短大進学のため家を離れる日が近づいていた。
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