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頑張っても「聞こえない」。見渡す限りの大海原で、浮かぶのは私一人。助けは来ないと初めからわかっていた。

詳細な人数は覚えていないが、当時私が通っていた高校には約1000人の生徒がいた。その高校に、1人耳が聞こえない生徒が入学した。それが私だ。

自分にとって「頑張って聞く」ことは、「頑張って口を読む」ことだった。耳は、はなからあてにしていなかった。補聴器をつければなにがしかの音は入るものの、音声としては入ってこない。何か音があるな、ぐらいしかわからなかったからだ。

入学して最初に受けた英語の授業を、今でも覚えている。教室内に入ってきた先生は、髪の毛が薄い男性の先生で、お腹がぽっこり出ていた。口があまり動かずもごもごした話し方をする先生だった。

先生が教科書を開き、口を動かし始めた。おそらく英文を読み始めたのだ。だめだ英語だともっと口読み取れない。先生が教卓の前を離れ、教室内を歩き始めた。ほんの少し片足を引きずるような歩き方で。自分より後ろに行ってしまった。後ろを見ても、見えるのは背中だけ。

わかった、この先生は、教室を歩き回りながら、生徒に順々に音読させるやり方で進める先生なのだ。ああこれが聞こえる人のやり方。

順々に生徒を指して英文を音読させているのは教室内の雰囲気でわかった。しかし、誰がいま指されたのか、どこを読んでいるのか全く分からない。今読んでいるのは誰なのか。私は頭を急速回転させて、この先生の指名法則を考え始めた。教室内を見回し、口が動いている生徒を探してみたが見つけられない。陽が差して逆光で顔が薄暗くて口がよく見えない。このとき自分はもはや教科書の英文を追っていなかった。法則を見つけ出すことに必死だった。窓側の後ろから前へきているのか?通路側の前から後ろへ行っているのか?もし自分が指されたらどうしよう?

突如、教室の雰囲気ががらっとかわり、みなが自分を見つめた。どうやら自分が指されたらしい。ついにこのときがきた。先生も自分を見つめ、何かを言っているが口が小さくあまり動かない。何を言っているのかわからない。どうやら誰かクラスメイトが、私が耳が聞こえていないことを話したのだろう、先生の顔つきが変わった。先生はまた歩き始めた。何事もなかったかのように。どうやら自分は免除になったようだ。

自分はその場をとりあえずやり過ごせたことに非常にほっとしていた。もう「法則」を考える必要がないからだ。先ほどの状況から、この先生の授業では、今後私は指されることはないだろうと確信した。実際にその通りになった。自分は出席していながら、指されることのない「欠席」扱いの生徒だった。

それからほどなくして、その先生はラジカセを持ってくるようになった。当然ラジカセをいくら見つめても、流れている(であろう)音声は聞こえない。ラジカセはラジカセだった。

英語のほかにも、国語、数学、いろんな授業があった。授業内容の理解はさておき、「授業への参加」は、科目や授業進行方法、先生の話し方によるところが大きかった。例えば数学は、黒板に問題が書かれ、回答も板書で行う。プリントを配布したり、板書をたくさんしたりする先生は私にはありがたかった。ノートを隣席の生徒に借りる必要がなかったからだ。

しかし、それら科目のなかでも、とくに英語の最初の授業を覚えているのは、「まったく歯が立たなかった」からだろう。なすすべがなかった。頑張りようがなかった。

先生が板書をしている間は、顔は黒板を見ているから、先生の口は見えない。先生が下を向いていると口元がよく見えない。先生がこちらを向いているときでさえ、口元を見てもわからない。ところどころ読み取れたのは「だから」「えーと」「です」ぐらいだ。授業が終わったときはどっと疲れた。次の授業でも、同じようにずっと先生の口元を見つめた。そうして一日が終わった。次の日も、そのまた次の日も同じようにして過ぎていった。

高校に入学して最初の一週間がすぎた頃だったか、歩きながらの帰り道、こんなことを思った。これがあと3年も続くのか、自分はそれに耐えられるだろうかとも思った。路面には雪がありだいぶ解けてシャーベット状になっていた。自転車の轍が何本もできていた。この時期、自転車に乗る人もちらほら出ていたが、自分はまだ自転車通学に切り替えていなかった。

見渡す限りの大海原で、つかまるものも何もなく、立ち泳ぎしながら来るかどうかもわからない救助を待ち続けるような気分だった。いや救助が来ないことは初めからわかっていた。浮かぼうとする努力をやめることは死を意味する。深い暗い海の底に沈んでしまう。そうなったら自分はもう終わりだ。自分はずっと1人で、泳ぎ続けなければいけないんだと思った。

こんなふうにして、私の「短いようで長かった3年」は始まった。

まだ桜は咲いていなかった。

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