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それは「友情」か「憐憫」か。聴こえる「友達」とのつながりの意味を、私は高校時代ずっと考えていた。

聾学校同級生とは、1,2歳の、おむつもとれていない頃からの乳幼児相談のときからずっと一緒に過ごしてきた。物心ついたときから、隣にいて、毎日学校で一緒に過ごしてきた仲だ。私には彼らが「ともだち」であった。
「ともだち」のそのお父さんもお母さんも、兄弟姉妹も、全部ひっくるめて、私は知っていた。家族ぐるみで旅行やキャンプ、登山もした。隣の家のおばさんよりずっと濃い間柄であった。
私の母にとっても、周りのお母さんたちは、単なるママ友ではなく、同じく聴こえない子どもを育てる同志、戦友であったろう。

私の聾学校では、平均して1学年が5人前後であり、私の学年は4人しかいなかった。学年ごとに組は1つだけがほとんどで、ずっと私も1組であった。転校生で1人増えたときがあったがまた1人去って4人クラスに戻った。私は聾学校時代のほとんどを、4人のクラスで育った。同級生はクラスメイトと同義であった。

人数が少なかったから、体育は複数学年で合同で行われた。授業の進度や、児童の人数などによって、学芸会の劇・器楽、運動会の種目は、学年を超えて発表グループが組まれることがあった。
なので同級生だけでなく、そして後輩、先輩たちは、上にも下にも3学年くらいは、どこで生まれたのか家はどこか、兄弟姉妹、家族構成も詳しくお互いに知っていた。運動会には、家族兄弟姉妹も来た。話したことはなくても、あの子は誰々の妹だ、あの人は誰々のお父さんだ、と分かっていた。

同級生との関係は、私たちの関係は、どういう言葉で言い表されるものだろうか。「幼なじみ」だろうか「ともだち」だろうか「クラスメイト」だろうか。そのどちらでもあり、どちらでもなかった。
そのような濃厚な関係は、聾学校の外には見つけることができなかった。聾学校の外の世界では、私たちの関係をぴたりと言い表す言葉がなかった。

「友達」とは、初めて会ったときに自己紹介をしあい、話をし、共通点から会話が深まり、一緒に過ごすようになる。一般的に、「友達」はそういう過程をたどって作られることが多いようだと思っていた。
では、聾学校の子どもたちは、友達か否か。「友情」とは何か。
そんなふうに、中学生になってから私は、友達の定義について考えるようになった。
小さいときに一緒に遊んだ近所の聞こえる「ともだち」とはすっかり、疎遠になっていた。習い事でも、「友達」はできなかった。

「友情」とは何かという問いを抱きながら、私は一般高校に入学した。
聾学校とは違う関係性の友人を作れるのではという期待もあった。しかし、一般学校は、聾学校と違い、よそよそしかった。他人行儀であった。

高校2年生になって、初めて同じクラスになった子がいた。
Pさんとしよう。Pさんは、初めて、私の言っていることを「もう一度言って」と聞きなおしてくれた子であった。もしかすると、それまでの聾学校でも聞かれたことがなかったかもしれない。初めて会ったとき、私も彼女も16歳だった。
私は聞きなおしてくれたことがとても嬉しかった。私に向き合い、私たちの関係を構築しようとする気持ちの現れだと思ったからだ。私はもう一度、話した。
そんな繰り返しを重ねて、その子は、私の発音に慣れてくれた。
当時の私が持っていた、たったひとつの「言語」を覚えてくれた。私は手話も、筆談という方法があることも知らなかった。
彼女も、私に分かるような話し方を、ゆっくりすぎない話し方をしてくれた。彼女の口はとても読み取りやすかった。

私は「友達」ができたと思った。とても嬉しかった。
高校の先生たちも、私の「言葉」がわかる生徒が現れたことにすぐ気づいたようだった。そのまま同じ3年生になっても同じクラスになった。先生たちは、調理実習でも同じ班にしていいかと確認をしてきて、そのように取り計らってくれた。授業中でも、時々、教科書のページが変わったことに気付かない私に口パクで、〇〇ページだよ、とそっと教えてくれるようになった。黒板や教科書のない体育でも、状況を教えてくれるようになった。
私はとてもありがたかった。暗闇のトンネルにぽっと差し込む光明であった。視界は鮮やかになりだした。隘路を歩きぬけるための杖を手に入れたような気がした。
私は高校に通う張り合いが出た。Pさんを通じて、友達の友達というふうに、「友達」が増えた。それからの高校2年間を私はPさんに頼りきって過ごした。学校の先生たちも。

Pさんという友達ができたことは、母の知るところとなった。
私はPさんの存在を嬉し気に語っていたからだ。その私に、母はこういった。
「あなたは友達と思っているかもしれないけど、向こうは違うかもしれないよ」

私は母にそれを言われたとき、すぐに「違う!」と言い返した。
しかし、あっという間に、母の言葉は私の心をどす黒く侵食していった。母の指摘した可能性が頭から離れなくなった。
それを言った母は、高校でただひとり耳が聞こえない娘が作る「耳の聞こえる友達」は、友情からなるものではなく、憐憫の情から一緒にいてくれるだけではないか、という懸念を捨てきれなかったのだろう。もし、私だけが友情を信じていて、それが私の思ったものではなかったとき、私が裏切られたと感じて傷つくのではと心配したのかもしれない。

かねてより、私は高校入学前から、”聾学校の「友達」は友達か否か”という問いを抱いていた。そこへ、
聴こえる人は聴こえない人と友達になれるか否か
という問いがあわさった。

彼女たちは「友達」なのだろうか。
私が聴こえずかわいそうだから一緒に付き合ってくれているだけなのだろうか。
一般的な、友達になるプロセスに照らし合わせれば、気が付けばずっと隣にいた聾学校の「友達」よりも彼女たちとのつながりのほうが、友達の作り方として「一般的」だ。まったく知らなかった同士が知り合って、会話をし、一緒に過ごすようになる、そういう関係は「友達」ではないのだろうか。
友達とは何かという問いは、母の言った言葉と共に、それからも私の心に沈殿しつづけた。

ある日、Pさんが欠席した。
「通訳者」を失った私は、途端にその一日にもやがかかった。もともと、そのようなもやには慣れていたつもりだったが、一度視界が鮮やかになったあとのもやは、さらに暗く霞んで見えた。私は一日がいつもの何倍以上にも、長く感じた。私はいつも以上に重い身体をひきずって帰った。

翌日、Pさんが登校してきた。私は嬉しかった。嬉しくて、「Pさんが昨日いなかったから大変だったよ、辛かったよ」と言ってしまった。言おうと思っていたわけではなかったが、Pさんの顔を見た途端、口をついて出た。Pさんは、そうなんだねごめんね~と返してくれた。
Pさんに、それをいってどうなるというのだろう。Pさんにしてみれば、欠席ぐらい自由にさせてくれ、とも思ったかもしれない。
Pさんのことで私が「勝手に」傷ついたことが他にもある。それは、彼女が故意に私を傷つけようとしたものではない。Pさんと他の人との関係性などもあり、私が拡大解釈をして「勝手に」傷ついたものだ。

Pさんとは、高校卒業後数年は会っていた。
彼女と会うと、楽しい反面、否応なしに、彼女にまつわる高校時代の嫌な思い出が増幅されて思い出された。しかしその思い出には蓋をし、話題には出さなかった。私にとっては、暗いトンネルのような高校時代を一緒に歩いてくれたという感謝の気持ちがあったからだ。
だが、あるとき、Pさんと会っているときに、私は高校時代の負の記憶を自分ひとりでは抱えきれず、あのときはつらかった、あのときは嫌な思いをした、とぶつけてしまった。高校を卒業して、5,6年は経っていた。私がPさんを「断罪」するような状況になってしまっていた。そのときの私はPさんが受け止めてくれるのが当然だ、謝ってほしいとすら思っていた。
Pさんは、変わらず、あのときはごめんね、だの、あのときは〇〇さんが言ってきたからね、などと返してくれた。

自分は、Pさんについ自分の気持ちをぶつけてしまったが、彼女は自身の気持ちはどういうふうに整理していたのだろう。次第に年賀状だけのやりとりになり、その年賀状もここ数年で途絶えた。

私の声ともいえない「声」をしっかり聞き取ろうとし、聞き返した彼女の勇気。
私のどうしようもない批判めいた言葉に、ごめんね~と返した彼女の度量の大きさ。
当時の私には見えていなかった。
自分は、Pさんの気持ちを慮る余裕がなかった。
彼女は、耳が聴こえるだけの、私と同い年の高校生だ。
彼女には、私の人生を背負う責任も、義務もないというのに。

私には、幼少の頃、自分が耳が聞こえないことを自覚していなかったときに遊んだ「友達」がいた。
聾学校時代、耳が聞こえないという共通点だけで繋がった「友達」がいた。
高校にただ一人いる、耳の聞こえない生徒という異端な存在に、声をかけ、一度聞いただけでは何を言っているのか分からない声をしっかり聞き取り、私の「言語」を覚えてくれた「友達」がいた。

当時、彼らは友達かどうか私は自信がもてなかった。私は「友達」の一般的な定義に縛られていた。
絵具を盗んだ少年と盗まれた少年が一緒に葡萄を分け合って食べる話がある。盗まれた側の少年は、はたして盗んだ少年を許し、葡萄を一緒に食べられるのか。この2人の少年は本当の「友達」になれたのか。
聾学校時代も、高校時代も、私の遥か後ろに遠ざかった今は、このような友情もありうるだろうと素直に信じられる。

そのいずれの時代の「友達」も、確かにすべて、私の「友達」であったと思う。あの時代、あの場所でしか出会えなかった友達だ。
私は彼らと同じ空間にいて、同じ空気を吸って生きてきた。彼らとは今ではもう疎遠になってしまった。彼ら「友達」のなかには、私が傷つけてしまった人もいる。

彼らのことを思い出すと懐かしい反面、申し訳なさ、後ろめたさも入り混じる。それは今も私の心を柔らかくしめつける。


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