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ポテトチップスくらいなもの

某Xにて、あれこれつぶやいていて、スペースでお話をさせていただく機会があると、私の性別についてイメージと違ったのか驚かれることがある。

魂に性別はないと思うので、入れ物に対してのイメージなのだとは思うし、個々人のパーソナリティと性差との関連性は少ないとは思うのだが皆無ではないから、まあそうなのかなと首を斜めに傾げる。否定では無く、ううむという意味で。

ジェンダーフリーという概念は個人的にはあまり好ましくはない。差異を否定するために新たな差別や分類を増やす作業に思えるし、一部の例を除けば、それぞれの生物としてのありかたの否定に思えるから。

その上で、魂に性別はなく、肉体に左右されない個人のパーソナリティは男女関係ないのかなとも考える。中途半端で申し訳ないが、実感として。


だから、この私、あるいは僕、もしくは俺の文体からどちらかの性別だと推定される状況がわりと面白いなと思うのだ。もう、これは余談でしかないのだが、それぞれの生殖器の例えが片方が山のものであり、もう片方が海のものであるという不思議を超える不思議さ。

思えばV Tuberは容姿のアバター化であるが、ネカマなりネナベというものは性差のアバター化であるのか。いや、自分の場合はどちらかを装っているわけではないので魂がどちらかに見えるかというだけの話ではあるのだけれど。

何度か書いているが、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTのメタリックという曲の歌詞が私は好きで、人を愛した時には国籍や性別はポテトチップスくらいどうでもいいものという内容を歌っているのだけれど、ポテチに対してのどうでもいいか否かは別にして、その思想はかなり衝撃を受けた。

LGBTQうんぬんを持ち出すまでもなく、人が人を想うという事に国籍も性別も関係ない。ジョンレノンがイマジンで歌っていたことも多分似たようなことだったのではないだろうか。

結局のところ、生物としての性差以外に社会からこうあるべきという属性を押し付けられる役割みたいなものは、このご時世でもいまだに根強く残っている。

それを解消しようとフェミニズムやジェンダーフリーの思想を持ち出す人たちがいるのは必然なのかもしれんが、そこに囚われすぎて否定に走るのは俯瞰してみれば同じことではないのかと思えてしまうのだよな。

肉体は魂を運ぶ船理論であれば、遺伝子を運ぶ船理論の生殖をなによりも重んずる概念よりは受け入れやすいのだが、そもそも魂は存在するか否かですら実証されてないからなぁ、、、、。

と、文体から性別をイメージされて(ネガティブな意味ではない)考えてみたこの文章からも、人によってどちらかに思えるのかもしらん。或いは魂の中の少年性やインナーギャルがどちらが強く見えるのかということか。

あるいは、ギリシャ神話のベターハーフ理論をひとりでこなすアンドロギュノスなのか。嗚呼、だから恋人に出会わない人生であるのかという自虐はやめておくか。

世のLGBTQについての報道について、あるいはそれを取り上げ活動している活動家の1部について、私は良い感情を抱いていない。お前の勉強不足だと言われたら、それもあるかもしれないと認める。

その上で、多様化や反差別を唱える人こそ、耳目を集めるために差別的やヘイト的な発言をしがちである現状にうんざりしているし、そういう人を軽蔑している。

だが、現実には現在でも差別はあるし、性別で区切られているおかしなことは現実として残っている。そういう現実を是正するために行動している人で、我田引水に逃げずに向き合う人が変えていく未来に、性別によらない個人と個人の向き合い方が生まれていくなら、そんな喜ばしいことはない。

そう願っている。

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