正解を委ねる

俺間違ってる?とキレぎみに話す人を見て、それを相手に問う時点で自分が正しいと思っているのだろうし、自分の感情に社会の物差しの後押しがなければ不安になってしまうくらいなら、何も言わなければいいのになと気持ちは醒める一方の昨日。

話を聞いてみると、【普通は】と一般的にという単語が何度も繰り返されていた。社会通念上だとか一般常識ではという意味らしいが、プライベートにまで規範通りにしかやれないというのは幼さか。いや私よりも年上なのだが、、、。

自分が多数の側に常にいたいと思う人の気持ちは、理解はできるけれど、自分もそこに倣おうとは全く思わないし、思えない。自分の感情を誰かの数の多寡に委ねたくないし、その比率が変われば容易に信念を変えてしまえる人にはなりたくないからだ。


私はこう考える、こうするではなく、みんなそう言っているだとか、みんなやっているみたいな同調圧力を、さも自分は正しいみたいな口調で矯正しようと強制してくる相手とは共生できないから、程よい距離感でつきあっていくか、関わらないで済む位置まで逃げることが必要になるだろう。

善意による圧力は支配を正当化することになり得るし、合議制であるにも関わらず、知らない誰かの言葉を教義のように押し付けられても何も感じないか、あなたの主体はどこにあるのかと疑問に思って苛立ってしまうのだ。

昔は何も思わなかったが、年を重ねる毎に、違和感は強くなっているし、自分は諦めが悪いので、【普通は】と水戸光圀の印籠のように正義(笑)の言葉を押し付けてくる相手とは話にならないし、話をしたとて有意義な時間にはならないような気がする。


俺の考え間違っているかなという問いへは、間違ってはいないと思うが、その回答以外にも正解はあるだろうし、そもそも違いを認められないという点では好ましくないよねと言うべきだったのかな。

差異やズレのようなものはあるし、考え方ではあるけれど、虎の威を借る狐ではないが、自分の考え方まで世間との一致がなければという権威主義かつ自分の気持ちを比較しながらでないと話せないという事にいわかんはぬぐえない。

まあ正しかろうと悪かろうと、どうするかまで比較はしながら、正解を他人に委ねる思想はやはり苦手なのは間違いない。

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