アートはいつから難解で、高尚なものになってしまったのだろう?

趣味はアート鑑賞です、
と言うと、たいていは「へー!」で話は終わる。

どうせ深堀しても分からないし、ということで
それ以上に突っ込まれることはない。

たまにアート好きという人に出会うと
今度は「いつの時代の、どんな作家が好き?」
「その作品についてどう思う?」「なんでそう思うの?」とけっこう核を攻めてこられたり
アート論をふっかけてこられたり。

これが音楽だったら
「どういうジャンル聞くの?」というところから
「わたしは、この間○○のライブ行ってね」と
浅い会話もできるのに。

わたしは、アートの専門的な勉強はしていない。
「ただ心惹かれたから」「色がかわいいと思ったから」
「作家の背景を知って、感情移入できたから」とか
うん、もっと単純に「作品を見ておもしろいって思ったから」「ワクワクしたから」とか
そういう理由でアートが好きだ。

でも、作品を語るなら、
その作品が作られた時代や背景、作家の人生観や周囲の人々の影響、
なんか色々知って「真実」に近づかなきゃいけない
そんな空気を感じることが、とても多い。

かわいい、おもしろい、だけじゃ
どうしていけないんだろうね?

今、『バンクシー』の本を読んでいる。
バンクシーは話題性もあるし、お笑いの有吉さんも批判してたりして
かなり認知度は高いと思うけど
まあ、簡単に言うと街の塀や壁に勝手に落書きをする、イギリスのグラフィティアーティストです。

政治的、反権威的なメッセージが込められてたりして
ブラックユーモアのところが、大衆に受けているようです。

この本を読むまで、わたしは
バンクシーの作品をいいと思ったこともないし
迷惑行為という印象も強かったし
なにより匿名とかいってコソコソしてるくせに
作品が高値で売買されていたり、反戦運動をしていたり
なんだかなーという認識だった。

でも、読んでみて、匿名の理由や作品のでき方も納得して、
やっぱり知るとワクワクするよね、とは思った。
これからは見方も変わると思う。

本来、アートにまつわる知識というのは
その程度でいい気がする。
これを知ってなきゃバンクシーを語れない、というんじゃなくて
よく知らないうちは、直感で好き嫌いを決めていいと思う。

作品を鑑賞して、好き勝手言っていいと思う。
結局、作品を見て、自分の考えや価値観、人生とどう結びつけたか?が大事と思うから。
だから、美術史上で超重大な作品を
「この絵嫌い」の一言で片付けていいと思う。

でも、もしなんで自分は嫌いな作品を他の人は評価するのかが気になったら
少し調べてみればいいと思う。
もしかしたら、好きなところが見つかるかもしれない。

反対に、世間的には評価されてない作品でも、
背景とか何も知らなくても
「この絵の人は悲しそう」とか思ってるうちに、
自分の心のモヤモヤを感じることもあるし

「あー!好き」「飾りたい」「お洋服にしたい」とかから入って
そういうのがいくつか溜まったら
「わたしはこういう傾向のが好きなんだ」って気づいて
他の大事な感覚と結びつくこともあるから。

鑑賞の仕方は、ほんとに自由。
専門的な知識がないわたしには、そういうことを語る権利すら、与えられないのかしらん?
そんな特権的な文化だったら、続かない。
アートの主権は、大衆に戻るべきなのです。

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