やりたいことをおさらい4〜言葉を仕事にして、表現手段をなくしてしまった話

頭の中がこんがらがってきたので
整理を兼ねて、アウトプット。
わたしのやりたいこと、なんでこの発想に行き着いたか。

↓前の投稿までで整理できたこと↓

両親ともに精神を病み、思春期の頃から身近にあった「自殺」の2文字。三浦春馬くんの死をきっかけに、私自身のキーワードだと改めて実感。
20代のころは、生きづらい人を救うためには、もっと社会が寛容になるべきだと考え、好きだったアートにその答えを見出そうとしていた。でも、アートにどっぷり入り込んでいる人たちの排他的な感じは好きではなかった。
もっとアートに詳しくなりたい、と30歳手前でフランスにワーキングホリデーで旅立ったのだが…

アートに関係ある仕事をしたい、
そしてフランスの文化にもっと触れたい
そう思ってパリに旅立ったものの
現地に居続けられない理由ができて
志半ばにして帰国することとなった。

その後子どもを産み、編集の仕事を始めた。
仕事自体は、とてもやりがいがあって楽しいものだったんだろうと思う。
私に合っていたようで、評価も高かった。
でも、私は仕事より子育てが大切だったから
業界にありがちな長時間労働が苦しくて、楽しんで仕事はできなかった。

とにかく時間も心も余裕がなくて
趣味の絵画鑑賞はもちろん、ブログすら書けなかった。

ブログが書けなかったのには、もう一つ理由がある。

私にとって、言葉は表現手段だった。
ブログに好き勝手に書くことは、癒やしだった。
でも仕事で言葉を使う。
自分の文章を客観的に読んで修整したり、ライターさんの表現に注文をつけたりもする。
というか、そういう仕事だ。
みんなに分かりやすいように、批判を生まないように、
そんなことばかり考えてるうちに、プライベートの文章まで、自由に書くことが難しくなっていた。

つまり私は、表現を捨ててしまったのだ。

そんな状態で4年ほど頑張ったんだけど
ある日、会社に行けなくなった。

言葉という表現手段を、なくしてしまったこと。
言葉のこわさを充分に理解していて、なおかつ言葉がアイデンティティに結びついていたので、批判をとても恐れていたこと。

私の仕事を誰かが批判するのなら、それは私の人格否定になる。
そんな働き方をしていた。
だから、批判されないように、全て背負って頑張りすぎて
突然ぽっきり心が折れたのかな。

でも、こんな状況でも
「死にたい」とは一度も思わなかったんだ。
言葉のこわさ、次回から核心に迫っていけるかも。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?