死にたくなるほどの雨の日あるいは雪の日、そして郷愁について
朝起きたとき、雨だな、と思った。カーテンごしの朝の光がいつもより薄暗く、しとしとと湿っぽい音が聞こえる。
雨が降っていた。
ツイッターでは誰かが台風並みの低気圧だと言っていた。そうなのかもしれないし、気のせいかもしれないが、いつもよりも主張を激しく、心の中に常に飼っている悲しい気持ちが泣いていた。
朝5時頃だった。
1時間ほど布団の中でぐだぐだしたあとに、風呂場に向かい、蛇口をひねった。そして風呂が湧くまでにあいだ、また、布団に戻った。
日曜日は部屋の片付けに精を出しすぎた結果、くたびれてしまい風呂に入りそこねた。2日に1回はこんな感じで朝風呂に入っている気がする。記憶の中では夜に入った回数より朝に入った回数のほうが多い。わたしは夜のうちに風呂にはいるのが苦手なのだ。
先月から住みはじめた浅草のどちらかといえばボロい賃貸マンションは、風呂が古い。よく言えば「レトロ可愛い」し、悪く言えば「古臭くて気味が悪い」。それでもわたしは、お風呂についた大きな窓から入ってくる朝の光が好きだったし、雨の日に水が窓に涙のように流れる様が好きだった。今日も窓に流れる涙を眺めた。
今日は暗くなるまで電気も付けずに、レースカーテン越しのやわらかなほのぐらい光を感じながら、外からきこえるしとしとと水が滴る音に耳を澄ませながら仕事をした。
「新型コロナ感染症のそれがおさまるまで、一生このままでいいのに」
そんな気持ちで働いていた。友人に会えなければ、好きなアーティストのライブに行けなければ、好きな服を着て出かけられなければ、好きなバーでお酒を飲めなければ、部屋の外の世界はいらない。一生Stay homeしていたっていい。そんな気持ちだった。
そんなことを考えているうちに、雨の音を聴くのにも飽きてしまって途中から、好きなEXILEの曲を中心に構成されたSpotifyの今日のプレイリスト聴いて過ごした。気分上々↑↑が流れてきて苦笑した。
職場の同僚はSlackで、1日中ため息がとまらなくなったと言っていた。
明日こそ、日の光を浴びたいと。
そうだよな、と思った。
わたしはこの死にたくなるような低気圧や、空が落ちてきそうなくらいに低いくもり空や、あまりにも辛気臭く降る雨が嫌いじゃない。
むしろ愛していると言ってもよい。
低気圧はわたしを容赦なく布団に押し込み、曇天はわたしの目線を下げさせ、ベシャベシャと降り続く雨は目から流れる涙との境界を曖昧にした。
雪国で冬に自殺率が高いのも、日照時間が少ないのと関係してるので日の光は浴びたほうがいいですよ、と返信をしたときに、わたしは「ああ、これは郷愁なのか」と気がつかされた。
中学生の頃、30分も歩いて帰れば家に帰れるのに、友人たちはお母さんが迎えに来てくれることが羨ましくて、わたしがそこで待っていることに気が付かずにとんぼ返りしてしまった母親を、辛抱強く意地になって2時間も待ちつづけてしまったこと。
予備校の帰りに、祖母の迎えを待ちづけけて、空からゆっくりと降ってくる雪をずっと眺めていたときのこと。あまりにも暇なので雪を舐めてみたりしたこと。それでも来なかったので、30分ほどの道のりを、防水靴というには心持たない靴でざくざくと家まで歩き続けたこと。
こんな雨の日に思い出すのは、迎えに来てもらえなかった思い出と、文句も言わずに待ち続けた孤独の時間と、雪の日の静けさだった。
自分以外に誰もいないんじゃないかと錯覚させる夜の雪道は、孤独や悲しみや悲しさや苦しみをすべてを降りしきる雪のなかにないまぜにし、ただ「帰りたい」というその1点の幼き願望を研ぎ澄ませ、魂に火を付けた。
お前はひとりだと語りかけると同時に、あなたはひとりでも生きていけるのよと強く背中を押すような、そんな死にたくなるほどにつらいほど寒く、ときにかじかむほどに熱い、真っ暗な雪の日が、わたしは好きだった。
この死にたくなるような雨の日に、いまわたしはどのような孤独を、悲しみを、死にたくなるようなその気持ちを預けるのか。
雨よ、気が済むまで降り続けよ。
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