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夏のあらし

本日(8/13)は、関東に台風8号が上陸しており、まさに夏の嵐といった天候だ。

そして、今日は祖母の100歳の誕生日である。
100年…丸々1世紀を生きるってのは想像できないほど凄い。
(大分認知症は進んでいるが)
今の自分の約3倍の年数と考えると果てしない時間の長さを感じる。
今が2022年なので100年前は、1922年。
年号で言うと大正11年である。
3回も改元を経験している。
この年に産まれた人は、(みんな亡くなられているが)水木しげる、山下清、瀬戸内寂聴などの有名人がいる。

鬼滅の刃の舞台が大正元年から2年辺りと言われてるので鬼が消滅して10年後くらいだ。
1922年の歴史上の出来事は、大隈重信や山縣有朋といった明治時代に活躍した人が亡くなった年である。
幕末から154年しか経っていないのでこう考えると身近に感じる。
徳川慶喜は大正2年、新撰組の永倉新八や斎藤一も大正4年まで生きていたと考えるとごく最近にさえ思える。

本日のタイトルにした「夏のあらし」だが、「スクールランブル」の著者の小林尽先生の書かれた「夏のあらし!」から取っている。

8月と言えば終戦記念日でもあるが、この漫画は、現代と第二次世界大戦中の横浜(白楽や大倉山辺り)をタイムスリップして行き来する話である。

この漫画の中で1945年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲の模様が生々しく描かれている。

夏のあらし!7巻 電子168P

上記画像の079053辺りに祖母は昔から住んで居る(今は介護施設だがそれもこの近辺)。

漫画内にもチラッと出てきたが、黄金町という悪い噂の多かった地域である。
以下の引用を見て欲しい。

1945年5月29日午前の横浜大空襲で黄金町駅付近一帯は一番の人身の被害を受けた。黄金町駅では上下電車の到着と同時に空襲警報が発令され、多くの地域住民も周囲の建物が疎開で取払われたこともあり乗客乗務員と共に鉄筋コンクリートで覆われた高架線下に退避していた。付近では戦闘機が低空で機銃掃射を繰り返し、逃げ惑う人々が吸い込まれるように高架下に身を隠した。そこへ不幸にも焼夷弾数発が命中し、焼夷弾炸裂と同時にホームから地上に向い火砕流が発生した事から600名以上の犠牲者が出た。

駅周辺は強制疎開で大きな広場ができていたことから 付近一帯の死体が運び込まれたため、終戦後、供養のため地蔵尊が駅前に建立された。この地蔵尊は駅前開発の際に福智山普門院不動寺(南区西中町)に移設されている。
Wikipedia

戦後の噂が凄まじく、近年になるまでは治安の悪い地域の代表格みたいな扱いを受けていた。

戦後の売春・麻薬街時代

戦前から大岡川の船運を活用した問屋街として栄えた黄金町であったが、終戦後は高架下にバラック小屋の住居が集まり、次第に飲食店に変わっていった。そんな店の中から女性が客を取る店、いわゆる「ちょんの間」が現れ、いつしか関東でも屈指の「青線地帯」として知られるようになる。

(中略)

日ノ出町周辺や黄金町付近の大岡川沿岸にはバラック群がずらりと建ち並び(大岡川スラム)、さらにはしけを転用した不法の水上ホテルが28隻も浮いていた。この船は1950年代半ばまで目撃されており、映画『密航0ライン』(鈴木清順・監督 日活)にも登場している。1954年に強制撤去が行なわれ、地上へと移った。

「青線地帯」「大岡川スラム」で悪名をはせる一方、戦後の黄金町はヒロポンやヘロインといった麻薬密売の温床でもあった。特に昭和20年代は、大岡川を境界に密売組織による縄張り争いが頻発した。警察官の巡回すら身の危険を感じて出来ない程荒んだ環境であったという。

特殊飲食店(外観や届け出は飲食店や旅館を装っているが、実際は売春を目的とした店)街は1958年(昭和33年)の売春防止法施行後、一旦大人しくなったが、その間隙を縫って麻薬の売買が盛んになった。その臨界点は1962年(昭和37年)7月6日で、警察の取締で供給源を断たれた200人あまりの中毒者が路上に飛び出し、禁断症状を起こした。
Wikipedia

治安が悪いなんてもんじゃない(笑)
よくこんな街で生きていたなと思える。
ちなみにこの後、外国人風俗時代もある。
アド街ック天国で黄金町が紹介された際はゲストが苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

この黄金町の駅の近くに道慶橋(どうけいばし)という橋があり、隣に道慶地蔵尊という地蔵がある。
よく分かる良いブログを見つけたのでリンクを拝借し貼っておく。

子供の頃に祖母と、犬の散歩で歩いてた際に聞いた話で
「空襲の後は、この地蔵の前に身元の分からない死体が積み重なってたんだよねぇ…」と言っていた。「急に怖い話するなよ」と思った記憶がありよく覚えている。

この辺一帯は春になると川沿いの桜の木が咲き乱れる。
大正から昭和にかけて活躍した梶井基次郎の短編小説『櫻の樹の下には』で、綺麗な桜の樹の下には死体が埋まっていると言われてたりする。
科学的にはなんの根拠も無いらしいが、この道慶地蔵尊の横の桜の木は毎年、他に比べて一際咲き誇っていた。

もうひとつ逸話がある。
昔、この道慶橋と隣の一本橋の間には昔もうひとつ橋を架ける予定があったらしい。
うちの親戚の爺さんが、その地域では結構顔が利くようで、橋を架けるお金を集めた。
しかし、その集めたお金を使い込んでしまい、お金が無くなったと父親が言っていた。
今でも2つの橋の間に新しい橋が出来る気配はない。

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