書く人と読む人と読まない人の多違和

[決してまともに取り上げられることのなかろう(とはつまり「対話しない」ということである!)哲学プラクティス連絡会に対する「賞賛」を通して、対話とか哲学とか言っている「私」が「今」、哲学しない、対話しない、とはどういうことについてもっと「悪く」考えるためだけの、皮肉が込められた、私自身のための日記。]

哲学プラクティス連絡会は哲学的であったかどうか、という問いはもはや立てられる必要がない。というのは、まさにその名の通りだったからである。

ラストセッションの中で言われたのは、高校生や中学生や小学生にもこの大会が開かれているものとなればよい、学者が多すぎる、などということであった。誠に印象的であった。この大会の趣旨をやっと理念的に理解したと思えたのであった。

この大会が何かこれではダメだ、みたいなことはありますか、という問いかけ(言葉の上では問いかけであった、その文脈は違ったのかもしれないが)に対して、大会の趣旨如何に関わらず、私は発言すべき(しなければならない)ことがあったとやはり後になって思ったのだった。何も応答がなされなかったことを踏まえると、なおさらそう思われるのであった。勇気を持って、あけすけに、文脈など踏まえず、事柄の真相を語るべきであった。また、それが問いとして出されたということがどういうことであるのかを真面目に考えればよかった。そのように後悔している。そのような発言ができなかったのは、私が真理を語る勇気がなかったからであり、また、それほどの言論の技術も持っていなかったということに尽きる。あのような聴衆の目の前で、しかもクロージングセッションで、すべては丸くおさまるはずのその場で、この大会の何が哲学的であり、何が実践されたのかは、全く明確ではない、という真実を述べてしまうことはためらわれたのである。ためらわれたというのを正確に言うと、私はそんな肝が据わっていなかったということであり、ただの小心者なのであった、ということだ。このことは私は痛感したのであった。そのような空気を読まないような発言をするということを抑制するような習慣がこびりついている。だから、その習慣があの場で真相を語るという行為を許すはずもなかった。というのは、そんなことが問いかけられることを通じて大会の最後に人々が混乱してしまうのを誰も、もちろん私も、望んではいない。そんなところでのべつまくなし真理の探究をすべきだとは私には思えなかった。私はソクラテスほど愚かに哲学的にはなれなかった。

とはいえ、事柄の真相としては、哲学プラクティス連絡会が、参加者にどう思われていようと、哲学的でもなく、対話的でもなく、それらを実践するものでもなかったのは自明である。そのことについてああだこうだと私見を述べるつもりは全くない。というよりも私見など述べられる必要もない。ただそうであったのは事実なのだから。上に述べた私の真理にたいする信頼のなさが、全く哲学的でもなければ対話的でもない、ということは何よりも明らかであろう。そのことが分からない哲学対話の実践者はいないであろう。そして、私が以上のように言うことが個人的見解を述べているとだけ解されてしまいって事柄の吟味が忘れられるなら、それももちろん哲学的でない。本当にこれが哲学か、これが対話か、と問わず、いや仮に問うたしても答えを真面目に出そうとしない、ということに、哲学とか対話とかプラクティスとかいうことが名ばかりだということが示されている。そして、残念なことにそれに気づくのは哲学的洞察と感度を持った少数の人だけであり、それがどれほど哲学的感度のない人たちに誤解され、無視されているかによって、それが哲学のうちに収まらざるをえない度を示す。というのは哲学は普通の人があまりに自明であるがゆえに気付かないことを知っている、あるいは知ろうとしている、人であるのだから。しかしながら、そのことさえも、そもそも哲学的感度をもっていないと、認めたり認めなかったりといった次元にさえ到達しないのである。

いずれにしても、哲学もプラクティスも対話も、今回ようやくわかったのは、人々は人気だから飛びつく、ということであった。ただそれだけのことである。言葉だけが頼りである哲学が、そのような人気のキーワードに堕してしまうのがどうしても受け入れられないなら、私がこれらのことについて無限に寛容になればいいという話だということが、ようやく理解できた。しかし、感情は猛烈にそれに反発する。だがしかし、それも単なる私の感情であり、理性的でない何かがそう感じさせているにすぎないに違いない、今はよく分からないが。この木本という人は往々にして、感情的に理性的であろうとするのである。結局のところ、みんなが訳も分からずに使い、最近聞いたばかりの「哲学」とか「対話」とかに合わせて、哲学について何年も悩んで解明を試みてきた私の方こそ、もうそのような無駄な研究や悩みや解明などは忘れ、人々が使っているような言葉に合わせて「哲学」とか「対話」とか言えばいいだけの話である。これに関してはどんな困難があるというのだろうか。いやいや、どれほど困難があるとしても、どうして私が、自分自身の言葉にこだわることを諦め、一時の流行であるような哲学や対話の言葉遣いをしてはいけないのであろうか。対話のことについて、哲学のことについて、ずっとこれまで真剣に思索し、明確な答えまで導き出し、それを人に伝えようとまでしてきたが、そんなのは単なる個人的見解にすぎないし、単なる一人相撲以外の何物でもないのだから、人々にとっては全然聞くに値しないことである。単なる個人的な見解ではないと私が反論しても、人々は事柄をそもそも理解していないのだから、私が人々に反論している、とくらいにしか思われないのであろう。そもそもの事柄について語っていることを、対話ということが対話する人のことについてばかり考えられるために、全然見向きもされはしない。真理を語っている人のことばかり気にして、その真理そのものを吟味しようとしない。答えがありもしない「対話とは何か」という問いに答えるなんてのはただもバカげた話であって、それは問いでしかないし、誰かが答えうるようなものではない、という見解を全然変えるつもりがない。そればかりか、真理を語っている態度を尊重し、それならこう言えばよい、などと事柄の理解に先立って言葉遣いの不備を私に指摘するほどである。いやまあしかし、これの何が不思議だというのだろうか。いつも起こっていることではないか。この事実を受け入れるのに、一体どんな困難があるというのであろうか。この全き事実が受け入れられないということは、私は何か相当ひどい無知な状態であるに違いないのである。

とにかく、哲学とか対話とか言いながら、全然知的な洞察もなければ普遍的な真理も語られず、いやそれどころかそれをほんの少しでも目指すことはその場では行わないで、真理を語る勇気とか、対話が探究だとか、そういう体験談や実践の報告をしあい、互いに連絡を取り合うことを容易にする(ファシリテイト)ような大会であった。そういったことは、学者がやることなのであって、この大会は真理を語る場ではないし、知的な洞察や研鑽の成果が必要とされるような「学会」なのではなかった。それはそれで、まことにすがすがしいものであった。というのも知的努力も必要なく、真理を語る勇気も必要ないなら、もちろん誰にだってできることだろうからである。一般の市民はもちろん、高校生や中学生や小学生にも簡単にできる。哲学対話がそういうものならば、もちろん人々にもっともっと広く受け入れられるようになるべきであるし、そうならないと全く不思議であると言わねばならないだろう。しかも人でなくたって、動物にだって、ロボットにだって、できるだろう。こんなに簡単なことができないはずがないからである。哲学や対話は誰にもでも出来るというのがこれほどまでに正しいことであることを今更知り、そんな無限の可能性を対話や哲学に感じた今、なんと私は愚かなことか、と思わずにはいられない。

<日記を読んだ人1 >

いやーしかし、この日記を書いた人はとんでもない阿呆だね。阿呆だというよりも、無礼で独りよがりで、自分が皮肉を込めて言っているとおりで、それは逆を意味しようとしてるはずだが成功していなくて、無知というに尽きるね。そもそも、この人は「対話の哲学」なんて訳のわからないプレゼンテーションをさせてもらったということがどういうことであるのかちっとも理解していない。大会をやるというのにはそれより事前に準備も必要だし、その日に運営するスタッフ、登壇者とか、いろいろな人が動いて大会ってものになるんであって、それに対する何かを感謝というか、ありがたいことだとか、そういう普通のことが理解できないのかね? 大会って自分では何も人を集める準備もせず、そこに好きなことをしゃべりに行って、しかもたどたどしい言葉でみんながよく分からないところを、そういうことに慣れた方に司会をしてもらったり、あんな不十分なものを聞きにきてくれた人々のことなど全然考えていないんじゃないかね。それで、なんか、ある一つのことだけ取り上げて、皮肉を言ってみたりとかして、何が一体不満なんだろうかね。ただ、めちゃくちゃ言ってみてるだけなんじゃないかね。プレゼンテーションの1時間を与えられ、そこで真剣に対話とは何かを考えてくれた人のことを全然無視して、よくもこんなことが言えたもんだね。また、全部のプレゼンテーションを見たわけでもなければ、ワークショップに参加したわけでもないのに、どうして全然哲学的でないとか、対話的でないとか、言えるのかね。まったく不誠実ではないかね。誇張ということがある程度認められても、これはもはや誇張とは言い難いレベルなのであって、悪しき意図しか感じられないね。

<日記を読んだ人2>

もしもそう考えるのだったらね、こうも考えられるはずだろう。というのは、まさに、大会の準備や趣旨自体ということを理解しようとするからこそ、それに対する批判というものが出てくるのが難しくなってしまうのであって、そのことこそ、可能ならば是非とも問い直したいものではある、ということが。哲学とか対話とかが他でもない何かの特徴をもつとしたら、まさにそういうところだと思われるわけなのだ。大会の趣旨自体を「本当に」明らかにするためにこそ、そもそもそんなものがあったのかどうかとかを問うということは避けられるべきではないのだ。むしろそういうことが普段は問われないからこそ、積極的に問われるべきなのだ、とも言われていいだろう。そして普段明るみになっていないものを積極的に問うためには、ある種の、辛辣な批判や意図的な誤解というのが必要になる、ということは誰でも分かっていることだろう。というのは、我々は有限であって、はじめから全てを手にしてものごとを行うなんてことはないのだから。そのことをまず自覚するということにおいてこそ、哲学や対話が必要とされるし、また大きな効果を発揮するのであり、そこに優れて固有の知的努力や緊張性などが現れるのである。だから、哲学や対話のどんなことをやっていますという報告や連絡ももちろんいいけれど、それだけでは哲学や対話の本当のよさを理解しもらったことにはならない、というのが是非とも付け加えられるべきだし、強調されてもよいのだ、と思われる。そのためには、やはり、これが足りなかった、それは哲学的でない、あれは対話とは言えない、というような非難や中傷でさえもまたあってよかったのであると思われる。学会ではそういうことばかりやっていて実りがないのは確かにそうだが、それが全くなくなるというのもまた、研鑽を積み、真理を求めている人々「も」集まってもよいところであるなら、おかしなことなのである。自分こそが真理を語る、私は人生をかけてこれを研究してきた、という人に共感したり反発したりする場が開かれていないのは、どう考えてももったいないと思われるのである。そういうのは学会でやればいい、というのは、やはり間違っているように思われる。というのは、そういう真理探究や真理を語る場が、いつでもどこでもある、というのが、哲学対話が理想とするものに他ならないはずなのだから。そのことを報告し合うまさにその機会が、その一つであってどうしていけないのだろうか。というよりも、真理を語る活動を報告する場が、単なる報告に限られてしまって真理を語る活動そのものとは遊離するというのは、そもそもどうして可能なのだろうか。普通に考えればそんなことはありうるはずもないだろう。

<日記を読んだ人3>

もう、結局、みんな思い思いに言いたいことを言っているだけですね。この日記が、「決してまともに取り上げられない云々」と書かれているあんなに長いタイトルには、誰も何も言わないわけですか。

<日記を読んだ人1>

私は言いたいことを言ったことで、自分自身で考えることができてしまった。もう君たちの話など聞きたくない。というか君の話を聞くほどの余裕がない。というのも、プレゼンテーションで得たことをもっともっと考えないといけないからだ。司会の先生をはじめ複数の人から興味を持ってもらって、褒めてさえくれたところがあるから、そこが分かってもらえたということがどういうことなのであるか、もっと人に分かってもらえる説明はないのかどうか、考えずにはいられない。あの場を提供してもらったことには感謝しているのだが、まさにそのゆえにこそ、この点を自分で考えて、問いっぱなしにしておくのでなくて、きちんと答えを出すようにしなければいけない。結局答えを与えなかったら、やっぱり問いは無駄だったことになるのだから。君たちに言うべきことは、さしあたってはもう十分に言ってしまったから、一人にしておいてくれ。というか、一人になりたいから、私は、ここから去ることにする。では。

<日記を読んだ人2>

私もね、真理を語ることを語るということと、真理を語るというということを行うということと、この差異があまりに気になって、もう、この日記を読んだことやこの日記を書いた人のことなどどうでもよくなってしまった。私にとって重要な問いがやっとこうして言葉にできたから、あとは自分で考える方がいい。他人がごちゃごちゃ言っているのが意味がわかるようになるときには、自分がそれで悩んだことがあることだと認識してはじめてそういうことが起こるのだ。逆に言えば、自分でひたすら悩まないと、他人の言っていることを理解した気になっているにすぎないと私は感じるのだ。そういうわけで、もうベラベラと喋る必要はないし、私は問われてもいないことを人に向かって答えるのは趣味ではない。だから、もうとにかく、私を離してくれたまえ。もう君とは今は、対話なんてできない。まずは私自身と対話させてくれ。しょうがないけれども、これしか私にはできそうもない。

<日記を読んだ人3>

そういうわけで、みな、思い思いに言いたいことを言っているだけですね、全然人の話を聞くつもりではなかったようですね。他人に向かって話しておきながら、他人の応答など聞きもせず、自分で考えることを触発してもらうだけなのですね。さて、これはどうなのでしょう。いいことなのでしょうか。私にはまったくそうは思われません。何かの触発を受けて自分自身の考えを発展させていく、というのは、おそらく、往々にして単に思いついたことにすぎないからです。どんなに一見重要そうなものと思われても、それが持続的に思考して結果を生むようなものでなければ、全然とるに足るものではない。そういう思いつきは、むしろない方がよく、それを排除していくことこそが、考えを発展させていく、という言い方さえできるかと思います。つまりどういうことかというと、自分自身で考えるということが、ある事柄に沿ってでなければならないことを、多くの場合に阻害してしまうことがあり、そのことに常に気付くことを忘れてはならない、ということです。そのことに気付くには、まったく受け入れられそうもない他人の言葉たちをひたすら反復していくことで何らかの理解を獲得しようとするしかないように思われます。何らかの理解を獲得しようとするのは、獲得が完了しない、ということです。とにかく、意味が分からない、と言いながら反復する、というような感じでしょう。私もごちゃごちゃと言ってしまいましたが、言いたかったことは、対話と言いながら、我々は多くの場合に聞いていないし、聞かれていないのであって、むしろ対話はそれを問題にすべきだということです。聞いていないし、聞かれていないということは必ず起こるのであって、それに気付くことが我々のなしうる最善のことなのです。その程度の愚かなことが、我々には最善のことなのです。そして、この最善のことは簡単にできることではなく、何度も何度も対話をし、それを意識的に反復する、つまり常に話を聞くことは難しいことであると自分に言い聞かせている、ということが必要であることは、いくら強調されても強調されすぎたことにはならないでしょう。

<日記を書いた人>

おお、おお、丁寧にみんな私の真剣な考察について対話してくれているではないか。絶対確実な真理の多くが、どれほど幾たびも主張されたからとて、人は決して知ろうともしないというのに、こういうものがたまに、誰かの気をひくこともあるようだ。まあしかし、人がどれほど何かを知ったとはいえ、それがどうしたということであろう。全ての人が仮に全てを知ったとはいえ、それがどうしたということであろう。真理が人の知によって、一体どうなるというのであろうか。

<日記を読まなかった人>

哲学対話か、対話か、哲学か、なんかよく分かんないけど、とりあえず、やってみるか、面白そうだし、簡単そうだし、よさそうだし。悪いところなんて全然なさそうじゃないか。どうしてみんな、哲学とか、対話とか、哲学対話とかやらないのかな?答えを求めて問えばいいわけでしょ?答えを求めて問えばいいってことはでも、どういうこと?そうか、どういうことか、って問うことがもう哲学対話なのか!こんなに簡単なことなんかない。哲学対話チョー簡単!対話って何って対話!哲学って何って哲学!哲学対話って何って哲学対話!問いって何って問い!問いって何って問い?

対話屋ディアロギヤをやっています。https://dialogiya.com/ お「問い」合わせはそちらから。