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求心力とスター:第874回東京フィル定期演奏会

2016年2月26日(金)にサントリーホールで行われた東京フィル定期演奏会を聴いた。結果として素晴らしい演奏会だった。演奏の余韻が消えないうちに、その感想を認めておこう。

18:30には受付を済ませチケットを受け取る。今日の席は1階18列22番と23番。指揮者が視界の真ん中に来る席。ビールとスパークリングワインを飲みながら、開演を待つ。クロークは長蛇の列。仕方がないのでクロークに並ぶのを諦めて、コートは客席に持ち込むこととする。いつになく人が多い。そう。今日はマエストロ、チョン・ミュンフンがマーラー第5シンフォニーを振る日。だから関係者が多く詰めかけているようだ。

演奏はモーツァルトのピアノ協奏曲第23番イ長調から始まる。当初、チャイコフスキーコンクールで2位になった実績を持つマエストロ・チョンが自らピアノを奏でながら指揮をする、所謂「弾き振り」をするということで聴衆の興味は高まっていたのだが、指の調子が良くないという理由から、ソリストの小林愛美を迎えることとなった。小林愛美は1995年生まれで現在20歳。2015年のショパンコンクールのファイナリストとしてライナーノーツに書かれている。

ステージに登場した小林はまだ初々しい様子だ。一緒に現れたチョン・ミュンフンが小さな動作でオーケストラを眠りから覚めさせると、神に祝福されたようなモーツァルト独特の洒脱な空気が流れ始める。長い序奏の後、最初の一つの音を奏でた小林。音量がある。音が太い。モーツァルトにピッタリの印象ではないのだが、音の輪郭がハッキリとして粒立ちがいい。テクニックはしっかりしていて元気なピアニストである。演奏はまずまずの成功と言っていいのではないだろうか。ただ演奏後にピアノの傍でお辞儀をする仕草、ステージの上手に引いて、拍手を受けて再登場する一連の動き。これが極めてダルで、エレガントでない。まだ若いピアニストだということもあるだろうが、こうした一挙手一投足が緊張感に満ち、エレガントで人を惹きつける力を持つのが本当の巨匠である。周囲のスタッフは小林にそうした教育を施した方がいい。

身のこなしはいまひとつだが、アンコールのショパン(ノクターン第20番嬰ハ短調「遺作」)はよい演奏だったと思う。情感たっぷりに歌われたし、音も美しかった。ただ私の印象ではやはりこの人のピアノはやや繊細な陰影に欠けるところがあり、ショパンを積極的に聴きたいとは思わない。この人の演奏なら、リスト、バルトークなどを聴いてみたい。

休憩を挟んで大作に挑戦する緊張感がほのかに漂う中、オーケストラのチューニングが始まる。マエストロが登場し、拍手が起こる。私はこの流れが醸し出す期待と不安が混じった空気が好きだ。またしてもチョン・ミュンフンは思いのほか小さな動きでトランペットにキューを出す。太い、太い音だ。マーラー第5シンフォニー冒頭のトランペットソロは極めて重要である。おそらくチョン・ミュンフンの指示によるものと思うが、とても太くて重い音で今晩の演奏は開始された。音色も好きな部類である。ビブラートも深くはないが、楽器の鳴りは極めて良いように感じられた。トランペットソロから全奏に移り、オーケストラが大きく動き出す。この立ち上がりのアンサンブルはやや乱れていたように思う。トランペットソロも少し音がひっくり返った箇所があった。大きな乱れはなく進行していた前半、第1楽章と同じ印象でまとめられた第2楽章まで、東京フィルは完全に乗っているという状態ではなかったと思う。

今晩のマーラー第5番のターニングポイントとなったのは第3楽章のスケルツォである。冒頭からホルンパートが思い切りのよい演奏を聴かせた。特に中間部以降のホルンのソロは素晴らしかった。言うまでもなくホルンという楽器は管が長く、倍音が多く、アタックが難しい楽器である。この楽器を駆使してかつミスなくソロを熟すのは非常に難しい。今夜、東京フィルのホルン奏者は本当に素晴らしかった。彼は今日のスターである。このスターの登場に引っぱられる形でオーケストラに活力が漲ってきた。さらにマエストロ、チョン・ミュンフンの指揮とオーケストラとの間のシンクロが高まっていった。奏者と指揮者の間に無数の「見えない糸」が張り巡らされて、それが相互の関係性を高めているようなイメージだ。求心力が働いている。さすが、東京フィルの桂冠名誉指揮者、マエストロ・チョンである。アンドレア・バッティストーニが指揮する東京フィルは実に楽し気に演奏する。それもまた魅力だが、演奏の完成度ではやはりチョン・ミュンフン指揮の方が高いように思う。

第4楽章アダージェットも素晴らしい演奏だった。耽美的、官能的と表現されることの多い楽曲だが、今日の演奏はもっと静的で静謐なイメージだった。よくマーラーの交響曲のジャケットにはクリムトの絵が使われる。20世紀初頭のウィーンという文化的なカテゴリーがそうさせているのだろうが、例えれば、今日のアダージェットはクリムトではなく、もっと彩度の低い、粒度の粗い、太い線で構成された絵画のような印象を受けた。ハープなどを擁してもサラサラキラキラした輝きはなく、もっと抽象度の高い、あるいはスピリチュアルな音楽空間と言えばいいだろうか。アジアのオーケストラならではの表現になっていたのではないだろうか。

フィナーレのフーガはアンサンブル、オーケストラの鳴りともに良く、素晴らしい高揚を見せた。当たり前だが第1楽章から第4楽章までの演奏がそれぞれ個性的な音の積み重ねを見せ、高い完成度の演奏ができたからこそ、フィナーレがその土台の上で花開くのである。こうした高揚感のある楽曲だからこそ、土台が強くなければ成功できない。その点で、今夜の東京フィルのマーラー交響曲第5番は理想的な演奏だったと思う。むしろ、第1楽章立ち上がりの不安定さを克服して、スケルツォで求心力を得て、アダージェットで別次元に行き、フィナーレに辿り着いたこの全体の時間そのものが極めて深い意味を生んだように思う。よい演奏に触れると本当に気持ちがいい。ありがとう、東京フィル。

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