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漂泊者の帰る場所:第879回東京フィル定期演奏会

2016年4月25日、サントリーホールにて東京フィルの定期演奏会を聴いた。曲目は珍しい「ペールギュント」の全曲演奏。指揮は鬼才ミハイル・プレトニョフ。

「ペールギュント」は基本的にポピュラーな名曲と言っていいと思う。現在はわからないが、小中学校の音楽の授業のレコード鑑賞などに取り上げられており、「朝」「アニトラの踊り」「ソルヴェイグの歌」「オーセの死」などはそのタイトルも含め、私とクラシック音楽との歴史のかなり早い時期にインプットされた曲たちである。しかし、私にとっての「ペールギュント」はあくまで「組曲」であり、管弦楽曲としてしか認知してこなかったのもまた事実である。

どういう経緯で「ペールギュント」の全曲演奏を行うことになったのか実に興味深いが、おそらくは指揮のミハイル・プレトニョフの研究、或いは興味が背景となっているのではないかと思う。作曲はノルウェイを代表する作曲家グリーグ。戯曲はこれまたノルウェイの至宝イプセンによるものである。ライナーノーツによれば、素材のひとつとなったのはノルウェイの山岳地方の民間伝承で、それをイプセンが脚色し、ペールという流浪の自由人キャラクターを作り上げたという。

演奏は管弦楽と合唱、ソリストはソプラノ、バリトン、メッゾ・ソプラノ。変わっているのは語りが入ることである。今宵の語りは「半沢直樹」などにも出演した人気俳優の石丸乾二氏。私は知らなかったのだが、彼は東京音楽大学でサックスを専攻した後、東京藝術大学で声楽を修めている音楽家だったのだ。尊敬。(笑)石丸氏の語りのその内容は誰が書いたものか、イプセンによる原詩があるのか、それとも今宵のための書き下ろしか、ライナーノーツのななめ読みではわからない。しっかりと調べてみる必要がありそうだが、この「ペールギュント」自体がグリーグによる完成稿がないということなので、難しいかも知れない。

演奏は端正でリリカル、合唱の迫力もあり、申し分のないものだった。特にペールの恋人ソールウェイを唄ったベリト・ゾルセットの歌唱が素晴らしく、結果として後半の演奏が一段と感動的になったと思う。ベリト・ゾルセットの声は艶やかというよりはマットな印象なのだが、滑らかで奥行きが感じられる。別の言い方を考えると包容力のある声。ソールウェイの役柄のキーワードはおそらく寛容や慈愛だと思うが、そうした意味でもぴったりの歌唱だったと思う。

全曲を通じて「語り」がフィーチャーされ、演奏の合間の「語り」を待って次を聴くという形になっていたのが印象的だ。この「語り」がタイトルでもあり主役と思われるペールの一人称で行われる。ペールはいわゆる破天荒な漂泊者として描かれる。母の愛を受けつつも村を飛び出し、冒険と放浪の限りを尽くし、しかしその間も恋人のソールウェイは彼を愛し、待ち続ける。現実にはあまりない話。(笑)その戯曲をペールの一人称にガイドされると、正直なところ感情移入しにくい。ハチャメチャなペールの人生、魔王やくねり入道など登場するキャラもゲームみたいでわけわからん。この難解な全曲を貫くものが見つからなかった私だったが、ソールウェイの歌唱がこの作品の核だとわかってからは面白く聴けるようになった。この作品は「ペールギュント」であるが、実際には「ソールウェイ」の話なのだと。

破天荒なペールはソールウェイの心の中で遊んでいた。ソールウェイは最後のララバイでそのように唄う。漂泊者が漂泊者を気取れるのも、破天荒が破天荒を気取れるのも、それを許す母性或いは母性的な存在があるからなのだ、というのがこの作品の本当のメッセージなのではないかな、と思う。ペールの狼藉や冒険や高揚や失望、それらを追っていくのではなく、それらを抱擁し許容するソールウェイに感情移入して聴くことで、私はこの「ペールギュント」を楽しむことができた。いい演奏会でした。

追記:一緒に聴いた妻は「それでもソールウェイにも共感できなーい」と申しておりました。当方はペールのようには生きられない模様です。(笑)

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