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【完全版】月の男 第11話

 控室のあたりには、もう選手たちの姿はほとんどなかった。みんな、開会式のために試合場に行ってしまったのだろう。この大会では、狭いながらも、各校の代表選手ひとりひとりに控室が与えられる。桂野学園。控室はどこだろう。お父さんが理事長だから、おそらく他校よりも少し良い部屋を与えられているはずだ――
「きゃあああ!」
 甲高いかすかな叫び声に、私は思わず足を止めた。どうやら声は、斜め前の控室から聞こえてきたらしい。どこかで聞いたことのある声。控室のプレートを見ると、そこには「桂野学園」と書いてあった。
「京子⁉」
 躊躇はなかった。私は控室のドアを開ける。
「――!」
目に飛び込んできた光景に、私は思わずたじろいだ。部屋の中には、完全に血の気のひいた顔をして床にへたり込み、震える京子と、驚いてこちらを見つめる徹夫の姿があった。そして床には、見知らぬ少女が紫がかった顔色で倒れ、はぁはぁと荒い息を立てていた。口からは泡がぷくぷくとこぼれている。
「なによ……これ……!」
 私はキッと徹夫をにらんだ。徹夫は驚いた表情こそしていたものの、妙に落ち着いて、動揺ひとつしていないように見えた。
「京子、なにがあったの、これ!」
 私は混乱して涙を流している京子を問いただす。
「わ、わたし……。一回戦の相手の北条さんが、挨拶に来てくれて……。開会式に行く前に、徹夫くんが来てくれて……。差し入れを……。それを飲んだら、北条さんが……。」
 京子はガチガチ歯をならしながら、震えて聞き取りにくい声を、必死に絞り出した。
「ただの睡眠薬だよ。このくらいじゃ死なない。」
 徹夫は冷静に言い放った。そこには、いつもの気弱な徹夫の姿はない。
「京子? うわっ、なんだよこれ!」
「きゃああ! 女の子が!」
 背後からの声に振り向くと、そこにはあまりの衝撃に顔をゆがめた篤子とユキの姿があった。
「篤子? ユキ!」
「追いかけてきてたぜ。途中で駆けていくお前の姿を見つけてからな。」
 『月の男』が私の横で静かに言った。もちろん、二人には男の姿は見えていない。
「篤子! 誰か人を……! 薬を飲まされた!」
 私が叫ぶやいなや、状況を把握した篤子は少女に駆け寄り、その体を両腕で抱え上げる。
「いや、医務室に連れてった方が早い! アタシが連れてく!」
華奢な少女を、馬鹿力の篤子がよいしょと抱える。篤子は一瞬ふらりとよろめいたが、すぐに足を踏ん張り直して、控室を出た。
「京子、震えてんな! しっかりしろ! つばめ、ユキ、あと頼む!」
 去り際に篤子が叫ぶ。篤子はバタンとドアを閉めた。
「徹夫……くん……? これ、徹夫くんがやったの……?」
 ユキが私の着物の袖をぎゅっとつかみながら、信じられない、という様子で徹夫の方を見る。
「そうだよ。だって邪魔じゃないか。北条さんがいなければ、中西さんは一回戦不戦勝だ。」
 徹夫はさも当然のように答える。『月の男』の飄々とした態度とは違う、まったく感情の見えない話し方だった。『月の男』のつかめなさよりも、よほどこちらの方が不気味で、私は背筋がぞっと凍りつく。
「徹夫。やっぱりあんただったのね。理科室で薬品を集めていたのも、脅迫状を書いたのも。あんた、一度私をうちまで送ってくれたもの。うちの場所は知ってたでしょう。」
私は平静を装って言った。泡を吹く少女の姿がまぶたに焼き付きつつあるのを、私は何度もまばたきし、必死に掻き消そうとする。
「そうだよ。」
 怒るでもなく、困惑するでもなく、徹夫はあっさりと答えた。あのオドオドとした、気弱な少年はいったいどこへ行ってしまったのだろう。何か別のスイッチが入って、人格がすっかり変わってしまったかのように、徹夫は淡々としていた。
「じゃあ、あのとき、私とあんたが理事長室にいたときだけど、ランプを爆発させたのも、徹夫、あんただったのね。私があいつに……『月の男』に気を取られている間に、ランプのところに爆弾を置いて、爆発させたのね。私、見たもの。あんたのカバンの中に、変な小さな機械みたいなのが入っているのを。」
「そうだよ。試してみたんだ。」
まるで同じ言葉を繰り返す機械人形のように、徹夫は、そうだよ、とすべてを肯定していく。あぁ、徹夫はきっと、もう始めてしまったのだ。私はそう思った。「誰にもできないような、何か大きなこと」をこんな形で始めてしまった。そして、それを始めるためにはきっと、徹夫はこれまでの自分をすべて、捨ててしまわなければいけなかったのだろう。そうでもしない限り、できなかったのだろう。
「もう……元の自分には戻らない覚悟だったの…?」
 私はそう口にしたが、それは徹夫に尋ねたというよりも、独り言に近かった。徹夫は、「なにか大きいこと」を始めるために、すべてを捨てたのだ。自分の弱さも、思い切りのなさも、そして優しさも。徹夫は感情さえも捨ててしまっているように見えた。今の徹夫に残っているのは、冷酷さと、自分の目標を遂げるという観念だけだった。本来なら何かを成し遂げるために必要となるであろう、必死さや一途ささえも、目の前の徹夫からは全く感じられなかった。
「徹夫くん……。私には、徹夫くんがなんでこんなことするのかわかんないけど……。」
 ユキがか細い声で語りかける。私の着物をつかむ力がいっそう強くなった。
「……けど、これ、犯罪……だよ……? わかってるの? 徹夫くん!」
 涙混じりの声でユキが叫ぶ。徹夫は、ふっ、と表情をほころばせたかのように見えた。
「犯罪か。僕は犯罪者になるんだね。でも、そしたらあいつらは、どうして犯罪者にならないんだい? 毎日のように、僕をからかったあいつらは。毎日のように、それを見て見ぬふりしていたあいつらは。自分とこの生徒だっていうのに、いじめっこを改心させられないあいつらは。まるでこれが当たり前の日常で、このことに何ひとつ疑問を持ってないかのように!」
 徹夫の語気が強くなる。私はさっと徹夫の身の回りに目を走らせた。徹夫は桂野学園の制服を着ていた。そして、これまでに見たことのない、大きな袋状のかばんを手に提げていた。あそこに何が入っているんだろう。想像しただけで体の中が冷たくなる。
「理不尽だよね。理不尽だよ……。」
 徹夫は目線をこちらに移した。スッとおもむろに、『月の男』が前に出ていく。男は徹夫の周りを一周ぐるりと飛んで、ニタニタっと笑った。
「理不尽、か。ククッ。」
 『月の男』は何一つ恐れる様子を見せず、まるで面白がってこの先の展開を待っているかのように、こちらをじっと見つめて私の発言を待った。
「理不尽って……。でも徹夫、私からも言っておくけど、それはこんなことする理由にはならない! 悪いのは、あんたよ!」
 冷静になれ。けれども怖気づくな。私は自分自身に言い聞かせた。なぎなたの勝負と同じ。相手に飲まれたら負けだ。ここで徹夫に飲まれてはならない。
「そうだね。たしかにこんなことをしたのは僕だ。でも、桂野さん、悪いのはあの男さ。そう、『月の男』だよ。桂野さんも知ってるだろう?」
 答える徹夫の目の色が変わる。徹夫は、本当に自分は悪くないと信じているかのような面持ちで、私に同意を求めてきた。私は反応を見せず、じいっと相手の様子をうかがう。
「そうだよ、桂野さん。桂野さんも見たんだろう? 悪いことは全部、『月の男』が起こしてるんだ。ねえ、僕が叱られそうになったら、そう説明してくれるよね? 桂野さん。」
そうだ。私もはじめは、たしかにそう思っていた。『月の男』と出会ったから、悪いことばかり続くのだと、そう考えていた。でも、今は。
私は静かに首を振った。
「どうして? 桂野さん。……ほら、見えないかい? 今もそこに、『月の男』がいるよ。ほら、桂野さんの後ろで、黒い手で銃を握ってる。ほら、振り向いて。桂野さんのこと、黒い目でじっと見つめているよ……。」
「徹夫……?」
私はその言葉に耳を疑った。『月の男』は、私の背後なんかじゃなく、徹夫のすぐ真横でこちらを見つめながら、こらえきれないといった様子でクックックッと笑っていたからだ。
「あんた……。」
 私の頭の中で、霧がさあっと晴れていくかのように、これまで感じていた違和感が払拭されていく。厚い雲が横切って行った後、夜空に再び姿を見せて輝く月のように、ある「答え」がはっきりと浮かび上がってくる。
「徹夫、あんた……、本当は『月の男』が見えていないのね……?」
 私は静かにその「答え」を放った。その瞬間、徹夫はかすかに表情を変えて、ぴくりとした。『月の男』は徹夫の目の前を何度かぐるりぐるりと横切った後、これまで我慢していたものを一気に噴出させるかのように、はははははは、と大声で笑った。
「ねえ、『月の男』って……?」
 視界の端の方で、座り込んでいる京子が、ユキの方に目を向けながら話すのが見えた。
「私もよく知らない。でも、つばめちゃんには見えているの。」
 背後からユキの答える声がする。その表情は見えなかったが、声は真剣そのものだった。
「嘘、だったのね。『月の男』が見えているというのは。私に話を合わせただけの、嘘、だったのね……。」
 そうだ。思い起こせば徹夫は、私が彼に教えたこと以上に、『月の男』のことを知らなかった。私の話を聞いたうえで、その内容に合わせ、うまく会話を組み立てていたのだ。そうだ、今思えば、できないことじゃない。佐之助と直哉が暴れた時に、教室から出ていく『月の男』を見たという話も、徹夫の創作だったとしても、何ら矛盾は生じない――。
「『月の男』……、そうね、徹夫、私はあんたに、あいつが黒づくめだってことしか言ってないかもしれない。今、あんたは、『黒い目』って言ったわよね。徹夫、あいつは、赤い目をしてるの。それに、黒い手って言ったけれど、あいつの手袋は茶色。全身真っ黒ってわけじゃないのよ。」
徹夫がぶるり、と一瞬身震いしたのがわかった。徹夫が細心の注意を払って構築した嘘に、今日初めてほころびが出たのだ。私はこれまでの徹夫との会話を思い返しながら、彼がどの時点で、どんな情報を得ていたのかということを、注意深く確認しようとする。
『月の男』は、やっと笑いの発作が治まったらしい。やれやれ、と言った様子で彼は、すうっと徹夫に近寄ってその肩に手を乗せる。もちろん徹夫は、全く気付いていない。『月の男』の髪の毛が、ふわりとなびいた。
サラサラッ。
その瞬間だった。
脳裏に、風にたなびく草むらの光景が浮かび上がる。
「そうか……。そうだったのね……。」
 私は自分の答えへの確信を強めた。徹夫はどうして、あのとき『月の男』の話を私に持ちかけたのか。
「徹夫、あんた、はじめて『月の男』を見たとき、武道場の中を覗いていた、そう言ってたわよね。でも、本当は、違うんじゃない? ……いいえ、武道場の中を覗いてたのが、本当だったとしても。それだけじゃない。……そうでしょ?」
 私は徹夫の先を取って、徹夫のペースに巻き込まれないよう、強気で持論を畳み掛ける。
「徹夫、あんた、事件の後に、水飲み場で私が、そう、ユキや篤子としていた会話を、聞いていたんじゃない? 私が二人に『月の男』のことを話して、大笑いされたあのとき、あの会話を物陰で聞いてたんじゃないの……?」
そういえば、あの時、草むらからガサガサと物音がした。あれは、徹夫の走り去る音だったと考えれば、説明できる。あの場所は理科室からも近い。徹夫は、理科室で薬品を物色する前か、した後かはわからないが、あの水飲み場のあたりを通りがかって、私たちの会話を聞いたんじゃないだろうか。
「そして、佐之助と直哉が暴れた時のこと。徹夫、あなたは自分の目では何も見てないはずよ。きっと、私が診療室の先生に、男のことを尋ねてるのを廊下で漏れ聞いていたのよね。そこから『月の男』の話だと推測したんでしょう。そしてその推測は、当たっていた…。」
私はまるで、事件の謎を解く探偵のように、自分の推理を語り聞かせる。そういえば、『月の男』という名前を口にしたのも、私の方からじゃなかったか。外見に関わる情報も、私がぺらぺらとしゃべったのだ。
「……徹夫、でも、どうしてそんな嘘をついたの? 脅迫状のことだってそう。『月の男』なんて名前を名乗れば、私があんたを疑うとは思わなかったの? あんたにとって、アダになるのに…。」
私には徹夫の行動原理まではわからなかった。ただ、わかっていたのは、徹夫が自分で「何か」を起こしたくて、自分を変えたいと思っていたことだけだった。
「ははははははは、ははははははは!」
 突然、部屋の中に奇妙な笑い声がこだまする。徹夫が突然、笑いだしたのだ。
「はははははは! ははははははは!」
 京子は、そしておそらくユキも、恐怖を押さえられないという顔で徹夫をただ見つめている。
「なぜ話を合わせたかって? 面白かったからだよ! 桂野さん、『月の男』が見えるなんて堂々と言う、あなたのことが! だから僕は、話を合わせた。もっともっと、桂野さんの話が聞きたかったんだ。桂野さんの『幻想』が興味深かったからだよ! まさか、今も本当に『月の男』が見えているのかい? ははははは! おかしい! そんなの頭がおかしいんじゃないの?」
徹夫はタガが外れたかのように、大声で笑う。私は裏切られたような気持ちになり、怒りと悲しさと、やるせない思いと、結局徹夫にも見えていなかったのだ、という事実からくる孤独感とが、脳内でぐるぐる混ざり合って、その渦に圧倒されそうになった。
いけない。私は、自分の袖をぎゅっと握りしめている、ユキの細い指の感覚に意識を向けようとした。そうだ、私は独りじゃない。たとえ、誰にもこの『月の男』が見えていなくても。最終的に、篤子もユキも、私の話を信じてくれた。
それだけでいいんだ。それだけで。
私はふうっと息をつき、精神を落ち着かせた。独り。徹夫もこれが怖かったのかもしれない。自分は独りなんじゃないかと思うことが、怖かったのかもしれない。だから、私だけに見える『月の男』の物語に、自分も参加しようと思ったのではないだろうか。
 当の『月の男』は、私を見つめたまま、相変わらずどこか楽しげな表情をしていた。そうだ、『月の男』自身もここにいる。こんなつかみどころのない奴だけど、『月の男』も私を見てくれている人のうちの一人だ。
「徹夫。」
 私は改めて徹夫に語りかけた。説得しようとか、そういう大それたことは考えていなかった。ただ、一度は自分に歩み寄り、自分に心を開こうとしてくれた徹夫に対して、私も真剣に向き合いたかった。
「徹夫、あんた、変わろうとしたのね。そうやって、何かみんなが驚くような大きい事件を起こして、自分を変えようとしたのね。でも、徹夫。あんたのやっていることは間違いよ。多くの人を傷つけることだから。あんたは、悪い形で自分を変えようとしてる。」
徹夫はこちらをじっと見つめたまま聞いていた。その肩が、わなわなと震え始めるのがわかる。はじめはただただ冷淡だったその目つきも、次第に鋭くなっていくのがわかる。
「徹夫、あんたが感じていた理不尽さ。私はいじめられてたわけじゃないから、全部は理解してあげられないかもしれない。でも、少しだけなら、わかる。どうしてこうなんだろう、どうして自分ばかり、って思う気持ちは、私にもわかるよ。あんたの苦しみは、私の比じゃなかったと思うけど……。私ももっと、あんたの気持ち、理解して、助けてあげればよかった。徹夫、ごめんなさい。今、こんなことを言っても、遅いかもしれないけれど。ごめんなさい。」
私の口から出た言葉は、謝罪だった。徹夫にゆっくりと語り始めたときには、着地点が「ごめんなさい」という詫びの言葉になるとは、自分でも思っていなかった。けれども、その言葉に帰着するのが当然の流れだったかのように、その言葉は自然と私の口から出た。学園代表の座を手放してしまった後、京子の強さを自然と認める気持ちになって、京子への尊敬の念を口にしたときと同じだった。
「……徹夫くん。私からも謝る。ごめんなさい……。」
ユキが私の真横まで出てきて、深く深く頭を下げた。床にぽたぽたっと涙が光りながら落ちるのが見えた。
「ごめんね、私、思い起こせば、徹夫くんがからかわれてるとき、ひどい、かわいそう、と思っても、そう思うだけで、何もしなかった。私、今思うとひどいことを…。本当にごめんなさい…!」
おそらく、ユキは徹夫とまともに話すのは今日が初めてだったはずだ。初めて話す相手に、いきなり素直に詫びを述べられる人なんて、そうそういないだろう。ユキの純粋さと優しさは、彼女の美徳と呼ぶべきものだった。
「徹夫くん、ごめん、なさい…。さっきの…、北条さんの、ことも……、あんなの、私は、許せないけど、でも…、私のことを、少なくとも徹夫くんは、考えて、くれてたんだよね…。ごめん、なさい…。私の、せいで、本当に、本当に……!」
京子はわあっと声を上げて、嗚咽を始めた。徹夫のしたことは、そして、しようとしていることは、決して許されることじゃない。けれども、二人が述べる謝罪の言葉は、本心から出ていた。徹夫の「行為」や彼のした「選択」への憎しみはあれど、徹夫自身や、その選択へと駆り立てた「理由」への嫌悪感はなかった。二人も、もしかして心のどこかで、私や徹夫と同じような、どうにもならないやるせない気持ちを抱いたことがあるのだろうか。
「……そうね、自分が変わりたいと思ったときに、他にも選べる道はあったはず。京子がなぎなたを頑張ったように……。」
私は独り言を言いながら、そっと『月の男』を眺めた。そうでしょう、と無意識のうちに、私は心の中で『月の男』に語りかけていた。男は、表情を変えなかったが、かすかに頷いたような気がした。
「黙れよ。黙れ黙れ、黙れっ…!」
 徹夫が、私たちの言葉を無茶苦茶に掻き消そうとしているかのように、黙れ黙れ黙れ、と狂ったように叫び出す。
「徹夫。聞いて。」
 私は静かに徹夫に近づき、真正面に立ってしっかりとその眼を捕えようとする。
「私も、一歩間違えばあんたみたいになっていたかもしれない。あんたと同じようなこと、していたかもしれない。でも、私は別のやり方で、きちんと自分の意思表示をすることにしたの。自分の思いは、ちゃんと言葉にして、周りに伝えるようにしたの。」
 私は、すっと徹夫の手を取ろうとした。
「徹夫、だからあんたも――」
「やめろ‼」
徹夫が絶叫し、バチンと私の手を薙ぎ払う。同時に、身を翻して私と間合いをとり、ごそごそっとカバンの中を探って、なにか黒い機械のようなものを取り出す。
「!」
 あのとき、徹夫のカバンの中から覗いていたものと同じだった。コードがところどころ伸びていて、いかにも手作り感満載の――爆弾だった。
「これが……あのランプを爆発させたの……?」
 洗練されているとはお世辞にも言い難い、まるで突貫工事でもして、あっちこっち試行錯誤しながら、なんとか形に仕上げたかのような、四角い不格好な爆弾。こんなものが本当に爆発するんだろうか。
「ふうん、こんなものを手作りするとはな。」
 『月の男』は全く恐れもせずに、爆弾に顔をくっつけて、しげしげと細部を眺める。
「俺の銃に比べると、はるかに劣る原始的なシロモノだが……基盤となる部分はしっかりしてるじゃねえか。」
へえ、と男は感心したような素振りを見せる。普段から銃を操ったり、分解して手入れをしている『月の男』には、おそらくその爆弾の内部構造や爆発の仕組みがわかるのだろう。
「つばめちゃん……、あれ、もしかして……。」
ユキが後ずさりしながら尋ねる。そうか、ユキは理事長室の爆発のときには、その場にいなかったから、知らないのだ。
「そうだよ。僕の作った爆弾だよ。」
 徹夫はおもちゃを自慢する子どものように、爆弾を持った手を前に伸ばし、見せびらかすかのような仕草をした。ユキがさらにひるんで後ずさり、ドアにどすんと背中をぶつける。
「まだ、ランプひとつを壊せるくらいの威力しかないけれどね。でも、人を一人負傷させるには十分な威力だよ。スイッチを押せば、三秒で爆発するんだ。手榴弾にもできる。今からこいつを、試合場のど真ん中に投げ込むんだ。」
 徹夫は、自分がこの部屋の中では最も有利な立場にいることを認識し、不気味な笑みを見せた。その眼には、鋭い敵意が宿っていた。徹夫は私をじっと睨み付け、彼のむき出しになった敵意は、かまいたちのようにこちらに飛んできて、私の皮膚を今にも切り裂かんばかりの迫力を帯びている。私は体の表面がビリビリするかのような感覚に襲われた。
あぁ、今、徹夫を見て、初めてわかった。私は『月の男』を恐れていたけれど、あいつにはやっぱり「敵意」はなかった。目の前の徹夫に比べれば、あいつは全く恐ろしくなんかない。
ひるんじゃだめだ。私はさっと控室全体に視線を走らせる。すぐ近くの床に、京子のなぎなたが横たえられているのが見えた。
「……馬鹿なことはやめなさい、徹夫!」
 私はそう言い放ち、さっと床からなぎなたを拾う。そして、その先端を徹夫の方に向けた。
「とにかく私は、あんたを全力で止めるわ。そんな爆弾なんか、使わせない。徹夫、決してあんたが嫌いだからじゃない。あんたは、一度は理解し合おうとした、友達だから!」
 なぎなたを構える手が、汗でじとっと湿っていく。けれども、恐怖はそこにはなかった。ただ、徹夫を止める方法だけを、徹夫から爆発物を奪う方法だけを考えていた。私は、じり、じり、と徹夫と間合いを詰める。
「……どうしてだい? 桂野さん…。」
 徹夫の伸びた腕が、小刻みに震え始める。
「どうして? 桂野さんなら理解してくれると思ったのに、どうして、どうして‼」
 徹夫は犬がぎゃんぎゃんとがなりたてるように、かすれるほどの大声を出して吠えた。徹夫の顔つきは豹変し、まるで血に飢えたオオカミのようだった。オオカミ。はるか頭上の空に輝く月を見上げて、声の限りに吠えるオオカミ。
「どうしてだよおおおおお!」
 徹夫が腕を振り上げて、ユキの方に突進しようとする。私はとっさにユキを守ろうと、さっと体を横に滑らせて、ユキの前に仁王立ちになろうとした。
その瞬間、徹夫はヒュンと向きを変えてドアに手をかけ、勢いよく外に飛び出す。
――しまった。逃げる。
「待て! 徹夫‼」
 私はさっと身を翻し、なぎなたを握りしめたままその背中を追いかけた。少しのためらいの後、ユキが走って私を追いかけてくる気配を感じた。気づくと私の真横を『月の男』がゆらゆら浮かんで並走している。
「うああああああ! うああああああああ‼」
 徹夫は言葉にならない叫び声をあげながら、やみくもに走る。徹夫の叫び声が控室の外まで聞こえていたとみえて、ドアの外にはそれなりに人が集まっていた。徹夫はその間をぬって走っていく。私も他の人にぶつからないように神経を集中させながら、徹夫の背中を全速力で追いかける。あれでも徹夫は男の子だ。足は私より速いようで、少しずつ距離が離されていく。
 やがて、走っていく先に、なだらかな傾斜があることに気づいた。
「うああああああああ!」
――試合場に向かう、昇りの階段だ。
「徹夫っ!」
 まずい。このままだと徹夫は、試合場になだれ込む。そこに着いたら、この勢いのまま、きっと爆弾を投げ込むに違いない。
 徹夫は階段に足をかけ、一段一段勢いよく昇っていく。まずい。間に合わない。なぎなたは? この距離じゃまだ届かない。でも、それでも!
「くそお!」
 私は諦めなかった。少しでも、たった少しでも距離を縮めようと、だんだん疲労を帯びていく足を一心に前へ前へと繰り出す。私がやっと階段のふもとにたどり着く頃、見上げれば徹夫は、もう長い階段を上りきろうとしているところだった。
「くっ…!」
 そこから起きた出来事は、時間にすればわずか数秒足らずのことだっただろう。けれども、私には、すべてがスローモーションではっきりと見え、まるで時の流れが停滞しているかのように思えた。
「――!」
 階段の頂上で、徹夫の身体がいきなり倒される。誰かが何かを叫びながら、徹夫に跳びかかったのだ。あれは、誰? 大柄な男。大治郎だ。大治郎と徹夫は、もつれながらゆっくりと倒れこんでいく。私の目にはそう見えた。と、徹夫が口を極限まで大きく開けて、何かをどう猛に叫びながら、必死に身体をねじり、こちら側に身体の正面を向ける。そして、まだ自由を保っていた腕をにゅっと振り下ろすと、その手から爆弾がふわりと解き放たれた。
 爆弾は、ゆっくりゆっくりと、放物線を描きながら、階段の下を目掛けて落ちてくる。徹夫の最後の、必死の抵抗だったのだろう。徹夫の屈折した思いがすべて詰め込まれた不格好な爆弾は、私とユキを目掛けて、最初で最後のダイビングに挑んでいた。
 ユキを、守る。
 そう思うよりも先に、いや、状況をはっきり認識するより先に、私の身体は動いていた。私は最後の力を振り絞って階段の一段一段を踏みしめながら、落下する爆弾に向かって駆けてゆく。ランプひとつを破壊させる威力。人ひとりを襲う威力は十分にあるが、逆に言えば、それ以上の被害は生まないはずだ。
 階段の中腹で、この爆弾を爆発させる。
 そうすれば、階段を上りきった徹夫と大治郎も、階段の下にいるユキも、致命的な巻き添えを食らうことはないだろう。
 このなぎなたで、爆弾をとらえる。その時の私にはそのことしか、頭になかった。
 結果、自分がどうなるかなんて、これっぽっちも考えていなかった。
 階段を上っていく私の目の端に、『月の男』の姿が映る。彼は階段の中腹より少し下の方で、まるで道を譲るかのように、黒い塊になって、隅の方に立っていて、私の一挙一動をじっと見つめていた。
 いける。
 不思議なほど私は、確信に満ちていた。
 私は両手でなぎなたを頭上に大きく振り上げ、同時にすべての力を込めて、跳び上がる。進行方向と、なぎなたを平行にして、縦一文字に振りかぶる。先端を下に向け、狙いを定める。ふわり、と空中を飛行する爆弾が、射程範囲に入る。
 今だ!
「やああああ‼」
 私は一気になぎなたを振りおろし、目下の爆弾に突き立てる。
 なぎなたの先端は、しっかりと爆弾をとらえ、伸びていき、階段の中腹の一段に、その爆弾を押し当てる。
 爆弾に、じわりと衝撃が伝わる。
 ――狙い通り。
 その瞬間、まるで時が止まったかのように、私は床に押し当てられて、動きを止めた爆弾を見つめていた。
 チッ。
 一瞬、火花が散って、

 ボウウウウウン!

 爆弾は、思い描いていた通り、階段の中腹で爆発した。
 目の前に強烈な赤い光が拡散し、私は自分の身体が衝撃で吹き飛ばされるのを感じる。
「きゃああああああ! つばめちゃあああん!」
 私はゆっくり、ゆっくりと傾き、階段の下へと落ちていく。
 体が次第に軽くなり、感覚がなくなっていき、目の前がだんだん暗くなって、意識が薄れていくのがわかる――
 視界にまだ何か、赤いものがちらついている。血、だろうか。
血? それだけじゃない。赤い、ひか、り……?
 先ほどの赤い閃光が、まだ目に焼き付いているのだろうか。
 いや、違う。これは、赤い瞳だ。
 闇の中に、私を見つめる、赤い瞳――
 意識をつなぎとめる糸が、完全にほどける――


(最終話へつづく)