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【完全版】月の男 第9話

 目が覚めるともう朝だった。私は半日近く眠っていたらしい。朝食を食べに食堂へ降りると、すぐに松子が近寄ってきて、私の体調を気遣った。私が笑顔でお礼を言うと、松子も幾何か安心したようだった。母親はまた例によって、「夕食も食べないで」だのなんだの言っていた。私は反論しようとしたが、今はとにかく食べることに集中しようと思った。
 自分でも驚くほどに食欲があった。ふと、家庭科の先生が、「意欲と食欲は比例する」なんて言っていたことを思い出した。

「つばめちゃん。」
学園へ着くと、廊下で誰かに呼び止められた。振り向くと、そこにいたのは京子だった。
「あの、つばめちゃん…。その、ごめんなさい…。」
 京子は深く頭を下げた。きっと、自分が学園代表の座を奪ってしまったと感じ、気にしているのだろう。
「私、師範先生にも、伝えたの。やっぱり、つばめちゃんが……」
「いいのよ京子。」
 私は、うるんだ瞳で必死に言葉を紡ごうとする京子の肩をポンッと叩いた。
「そんなの気にしちゃだめ。代表は京子、あんたなんだから。京子、本当に短期間ですごく上達したよね。私、京子のこと、尊敬するよ。」
自分でも驚くほど、言葉がすらすらと出てきた。この言葉に、自分の気持ちに、偽りは一切なかった。
「で、でもっ」
「京子、自分を変えるんじゃなかったの? あんた、本当に変わったよ。もっと自分に自信を持って。よかったら放課後、自主練付き合うよ。」
 私はにっこりほほ笑んだ。もう、悔しくない。京子なら、代表の座にふさわしい。
「つばめちゃん…!」
 京子の瞳が、ますますうるんだように見えた。
「その代わり、次は絶対負けないからね。私ももっと練習する!」
私は力強く宣戦布告した。京子は涙をぬぐって、はにかんだような微笑みを見せ、こくり、とうなずいた。

 
大会前日まで、私は篤子やユキと一緒に、京子のなぎなたの特訓に付き合った。授業以外の時間はほとんどなぎなたに費やしていたといっても良いくらいだったので、当然、徹夫や他の友人たちとゆっくり話す時間はなかった。ある昼休みのことだったと思うが、誰かが廊下で「佐之助と直哉は自宅謹慎をしているらしい」という噂話をしているのを耳にした。
『月の男』はまた現れなくなっていたが、私はとにかくなぎなたの練習に集中した。無駄なことは一切、考えなかった。
そして、なぎなたの大会当日がやってきた。

 朝起きると、なにやら家の中が騒がしい。しきりに電話が鳴ったり、執事たちが慌てふためいて部屋から部屋へ駆けていったりしている。
「あ、お嬢様、おはようございます…。」
「松子、何が起こったの?」
 松子がそっと私の背中に手を添え、食堂へと促す。喧噪に包まれながらも松子は、冷静さを保とうとしているのが伝わってきた。
「実は……、このお屋敷に、旦那様宛の脅迫状が届いたのでございます。」
「え、脅迫状?」
 私は驚き、食堂の入口で立ち止まった。
「はい。青龍館に爆弾を仕掛けたとの……。ご存じのように青龍館も、旦那様ご所有の建物ですから。しかも、このことを警察に漏らしたり、本日の大会を中止にしたりすれば、死人が出るだろうとの内容だそうです。」
「本日の大会って…! なぎなたの……?」
「はい…。」
 血の気がさあっと引いていく。爆弾。でも大会は、中止にできない。みんなが会場に集まるのに。京子も師範先生も、部員たちもみんな。
「つばめ。」
 コツコツと靴音を立てて、母親がこちらへやって来た。
「本日の大会、お父様は通常通り開催するご意向のようです。でもつばめ、あなたは会場に行ってはいけません。家でおとなしくしているように。ああ、爆弾なんて、馬鹿らしい。けれども、万が一のことがありますからね。」
「何を……言って……。」
 母親の言葉を聞いた自分が、わなわなと震えているのがわかった。
「何を言ってるの? でも大会はやるんでしょ? じゃあ、京子は? みんなはどうなるのよ!」
「皆さんにはいつものように、大会に参加していただくそうです。犯人を刺激してはいけませんから。もちろん、変な不安をあおらないように、参加者の皆さんには何もお伝えしません。念のため手分けして、爆発物の捜索は行うようですけれど。でも心配は無用のはずですから。どうせ愉快犯でしょう。」
 母親は、馬鹿らしい、とでも言わんばかりに、ふうっと悠長にため息をついた。
「じゃあ、私も会場に行くわ! みんなだけ危険にさらされるなんて、ありえない。愉快犯なら、私だって」
「なりません。」
 食い下がる私に、ぴしゃり、と母親が言う。私は思わず口ごもった。
「で、でもっ。」
 自分の心臓がバクバクと鼓動している。母親は物憂げに続けた。
「だいたい、今時脅迫状なんて、子どもの遊びだとしか思えません。しかも、差出人の名前、『月のおとこ』とかなんとか、本当に馬鹿らしい。真面目に相手をしていては、お父様のお仕事の障りになります。」
「つきの……おとこ……」
自分の頭にかあっと血が上っていくのがわかった。同時に、嫌な予感が胸をよぎり、足がガクガクガクと震えだす。
「あいつ……!」
私はさっと階段を駆け上がり、部屋に戻った。急いで身支度をすませ、矢絣模様の着物と袴を身にまとい、制服姿になる。そして、頭にきゅっと薄紅色のリボンを結わえ、部活用の鞄となぎなたを手に取った。
私が部屋の扉を開けると、それに気づいた母親と松子が、血相を変えて階段を駆け上がってくる。
「つばめ、なりません! 部屋着に着替えなさい!」
「行くわ。私、誰が何と言おうと行くわ! 止めても無駄よ!」
 私は強い口調で言った。母親にこんなにはっきりと口ごたえしたのは、いったいいつ以来だろう。母親は少しひるんだ様子だったが、「な、なりません!」と声を振り絞りながら、私の行く手を遮ろうとした。
 行くんだ。絶対に行かないと。みんなが危険にさらされるというのに、私だけこうしてはいられない。
 相手のなぎなたをかわす時のような身のこなしで、私は母親と松子の間をするりと抜けて、踊り場へ降り立った。私の突破に驚いた母親はよろめいたが、階段の手すりをとっさに握り、なんとか転落を逃れたようだ。と、その時、踊り場に大きな人影がぬっと現れた。父親だった。
「つばめ。いいから部屋に戻りなさい。」
 父親の身体、こんなに大きかっただろうか。目の前に立ちふさがれて、私は通せんぼされてしまう。
「お父さん、どいてよ! どいてったら!」
「いいから。」
 父親は静かに、しかし有無を言わせない口調で言った。彼の目には、今の私なんか、キーキーわめく小動物と同じようにしか映ってないのだろう。私は一歩、下がろうとした。と、その時、この前の京子の言葉が脳裏をよぎった。

 ――私、変わりたかったの。何もできない自分を、変えたかったの。

 ぐっ、と震える足に力を入れて踏みとどまる。私は大きく息を吸い込み、一気にまくしたてた。
「お父さん、そうやっていつも『いいから』ばっかり! 『いいから』って一言放ちさえすれば、それですべて済むと思ってる。何一つきちんと説明せずに、娘をコントロールしようとするのね。馬鹿らしい、脅迫犯よりよっぽど馬鹿らしいわ!」
父親に反論したのは、もしかするとこれが初めてだったかもしれない。これまでの鬱憤を晴らすかのように、私は言葉の弾丸を放ち続けた。
「私はそんなことはしない。自分の考えをきちんと言葉にせずに、黙って諦めるなんてもうたくさん! 理不尽って思ったことには、ちゃんと正面から言わせてもらうわ。普段、私のことなんか興味ないくせに、こんな時にだけ偉そうにするのね。お母さんだってそう、私の話は全然聞いてくれないくせに、自分の要求ばっかり!」
私は手にしたなぎなたの柄の根元を、ダンッ! と床に打ちつけた。私は一歩踏み出した。
「とにかく、誰が何と言おうと行くから。お父さんお母さんにはわからないだろうけど、京子も篤子もユキも、他の同級生も後輩も、みんな私の大切な仲間なの。彼女たちだけを危険にさらすなんて、私は絶対にしないから!」
次の瞬間、私は勢いをつけて走り出し、父親の真横をすり抜けようとした。ぎゅっ、と左腕が太い指で強くつかまれる感覚に襲われる。
「離して‼」
 私は思わずもう片方の腕で、なぎなたをやみくもに振り回した。ガチャンッと大きな音が響き渡り、なぎなたが何かにぶち当たった感触がする。刹那、目の前を額縁に入った絵が落下していくのが見えた。この踊り場に飾ってあった、『月の男』の絵だった。
 父親は驚いたのか、それとも絵を受け止めようとしたのか、私の腕をにぎる力を弱めた。いまだ。私はひゅっと身をかわし、踊り場で自分を取り囲む人々の群れから抜け出る。人影の隙間から、あの額縁が床にガシャンと落ちて、その衝撃で黒い油絵の具がバラリとはがれ、褐色のタイルの上に散らばるのが見えた。
 私は構わず走り去った。一直線に青龍館を目指した。


(第10話へつづく)