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大人になりな|オオカミの家

 子供の魔法・ナーサリーマジックは、扱い方を間違えれば途端に術者に破滅をもたらす。妖精の国に迷い込んだら、特別な知恵がなければ元の世界には戻れない。

『オオカミの家』は、チリ出身のビジュアル・アーティスト、クリストバル・レオンとホアキン・コシーニャによるストップモーション・アニメである。
 その内容はといえば、少女が「魔法」によって現実を改変し、しかしのぞみのものは結局得られないという、ナーサリーライムの常套句で締められる。言ってしまえばそれだけであるが、この二作の引き出す、背後にピッタリと付いてくる怪しさは、人々に不安感を催させるだろう。その不安感の背後にあるのは、ベースに敷かれている「コロニア・ディグニダ」「チリ独裁政権」「保守派」そして「ナチス・ドイツ」というキーワードからも連想され得るだろう。

「コロニア・ディグニダ」は、日本語で「尊厳の家」として知られる、ドイツ人宗教家パウル・シェーファーの立ち上げたコミュニティである。人によってはピンとくるのかもしれないが、僕はパンフレットの解説を読むまで名前も聞いたことがなかった。とにかく、「コロニア・ディグニダ」は、シェーファーによって設立された宗教的コミュニティであり、シェーファーの個人的な帝国とも言える。しかし、この語やチリ政治史を知らなくともその不穏な匂いを感じることはできる。

『オオカミの家』は、「コロニア・ディグニダ」のPR映像という体で制作された。実際には未成年者への性的暴行、身体的虐待、政権反対者への拷問・処刑が行われていたが、それらの「根も葉も無い悪評」を払拭し、コミュニティ外の人々を集客するためにこの映画を作ったと冒頭で説明する。

 さて、主人公のマリアは、度々問題を起こすやんちゃな女の子だった。コミュニティの女性を「雌鶏」、子供たちを「豚ども」と呼ぶところからもディグニダの体制自体を軽蔑していることはわかるだろう。
 彼女はついに逃亡を決行する。夜の森は見通しがきかず、(おそらく)薬物や虐待、拷問、そしてコミュニティの追手の気配によって弱った彼女の精神は、暗闇にいろいろのイメージを見せる。木々に食われる鳥や獣は、喜んで幹に吸い込まれ、葉や花になっていく。私はそんなものにならない。
 暗闇の中を駆けるうちに、一軒の廃屋を見つける。その中は荒れ果てて虫が湧き、喫食可能な食べ物は無いが、水道や電気は通っている(森の中の廃屋に?)。追い込まれたマリアは、廃屋で見つけた2頭の子豚にいつまでも一緒にいられるように「魔法」を掛ける。アナ、ペドロの名前、すてきな服、言葉、食事の作法……、文明的なものをもらった子豚たちの姿は人のそれになっていく。
 1人と2頭、いや3人は、しばらくあばら家で慎ましくも幸福に生きる。しかし、マリアの精神はコミュニティの記憶によって次第に蝕まれていく。

「狼」の声が聞こえる。この家は大丈夫なはず。コミュニティからは逃げられたはず。私とあいつらは違う。この家でならもっとうまくやれる。
「狼」の声が聞こえる。

 実のところ、マリアがやっていることはミニマム版のコロニア・ディグニダに過ぎない。本来自由であるはずのものを束縛し、自身の定めた秩序に則れば「尊厳」と称してご褒美を与える。
 現代でも機能不全家庭における一つの問題として、親から子への問題行動の再生産が挙げられる。人は受け取ったもの、学習したこと以外のことはできないものだ。親に虐待されて育った子供が、いざ大人になって良い親になろうとしても結局虐待してしまう、という問題は枚挙にいとまがないだろう。マリアは、コミュニティ内で唯一心の拠り所としていた家畜たちに対してそれをやってしまう。

女の子が子育てごっこに使う人形は実際の赤ん坊の代理や練習台ではない。

押井守, 『イノセンス』, 2004

 しかし、マリアが相手取るのは動かない人形ではない。物言わないところは共通していても、農村で人が生きたまま食べられたという報告も多くある豚である。意識的でなくとも「狼」(コミュニティの支配者=パウル・シェーファー)の価値観を内面化し、それを発揮するマリア。廃屋の物資は少なくなってくる。森の中にいる限りコミュニティの追手からは逃げられない。次第に追い詰められるマリアの精神は、アナとペドロに「狼」を投影し、恐怖から逃れるため外の「狼」に救いを求める。

 ナーサリーマジックは子供だけが使える魔法である。運命の人を占ったり、意中の人と繋がろうとしたり、死者を蘇らせたり、豚を人に変えたり……。ただし、多くの子守唄がどこか不気味な雰囲気を持つように、多くの童話がどこか不穏な影をまとうように、ナーサリーマジックもまた、使い方を誤れば術者の破滅をもたらすものである。
 マリアは廃屋で数年を過ごした。その間に少女時代は過ぎているだろう。子供の魔法を子供以外が使えばどうなるか。彼女の知識と知恵が魔法を侵食して、不思議の国はいつしか少女の命に危害を及ぼすだろう。そこから抜け出すには、死以外の方法はない。生命の死か、あるいは精神的な死=大人になること=コミュニティへの回帰である。

 人は子供のままではいられない。死も生も知らない子供のまま生きることはできない。いずれ大人にならざるを得ない。しかも、その「大人」の姿は、生まれたときから学習によって常に狭められている。そのような現実に直面した時、あるいは「大人」になる準備が十分に完了していないときに「狼(シェパード)」に出会ってしまった迷える子羊は、一体どうして、その魅力から逃れ得るだろうか。

「コロニア・ディグニダ」は、かつてあったカルト宗教だが、過去のものではなく僕たちの横に寄り添いフェロモンを撒き散らす存在だ。

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