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キャットファイトは犬にも食わせぬ|アリスとテレスのまぼろし工場

 正直に言うと、岡田麿里作品としては前作『さよならの朝に約束の花をかざろう』のほうが良かった。が、それは「他人同士が家族になる話」が好きという個人的な趣味の話になるため、そこは度外視しよう。

 前作同様、いちばん言いたいメインテーマは大変にシンプルであり、しかも明確であるためその部分だけは面白かった。つまり、父を好きになった娘の恋敵は少女時代の母である、ということである。エディプスコンプレックスの一形態であるが、相手は父であるが父でない「過去の父」であるという点ではまだしも健全な恋とも言えるだろう。
 ネタバレになるが、ヒロインの一人は未来からやってきた主人公の娘である。中学生の主人公と、幼稚園年少程度の精神年齢のまま体だけ中学生くらいになってしまった娘の恋愛というものは、ある意味では『さよあさ』における「長命の種族と定命の種族の深い関係」、『あのはな』における「すでに死んだ幼い想い人との同居」などと同様の、女史の嗜好の倒錯という特徴も見えるだろう。
 また、岡田氏の特徴として、思春期の描写が巧みであるということも特筆すべきである。能力に見合わない全能感、大人の仕組みから脱却しようとする若さ、そして性欲的なものへの忌避感、そういった仕組みすべてを手玉に取ったような、つまり世界のすべてを知ったかのような、しかし全く世界に敵わない矮小さ──美しいとすら言える思春期のエネルギッシュな脆弱さが、この作品においても巧みに描かれていると言える。

 しかし、それ以外の部分に関しては岡田”監督”の悪い癖が出ているように見える。露悪的に言えば『さよあさ』で見えた悪い癖が何一つ解決されていない。

 まず、セリフとモノローグですべてを説明しようとしすぎている。アニメーション制作はMAPPAなので、映像の質はかなり高いものが保証されている。だが、その映像演出の「意図」をセリフで説明させることでむしろ映像の魅力を削いでいる。舞台となる町を守る「神様」の姿として製鉄工場から出る「煙」が使われているが、これの姿を説明するのに「狼」という比喩が使われている。だが、その姿はどう見ても龍、あるいはよく見積もっても蛇である。
 また、むしろ無音(BGMをなくす)であるほうが印象深いシーンでさえもBGMを流したがる、無音を恐れる傾向も今作でも見られる。前作『さよあさ』においても、「あなたのこと母親だと思ったことないから」のシーンではむしろBGMは無い方が良いと感じたが、それでも流し、しかもその後のシーンとの整合性のためだけにウインドチャイムの音を出すという、緊張感を削ぐ演出が2つも入っている。
 そういった観客の没入感を削ぐ演出が頻出するために、セリフの自然感のなさや演出のアラといったものが目につくようになってしまっている。
 悪いついでにもう一つ指摘すれば、大人↔子供の二項対立を避けようとしすぎているようにも見える。これは物語の後半で、大人の中の子供っぽさを引き出すための前提条件としているのかもしれないが、かと言ってこういったサブテーマに時間をかけすぎてメインテーマにかける時間が削られてしまっては元も子もないだろう。

 今作は下敷きに、岡田監督がかつて執筆しようとしていた小説があるとパンフレットのインタビューで語っていたが、総じてその元となった小説に設定が引っ張られ過ぎているように見える。愛着があるのは構わないが、そのせいで魅力が削ぎ落とされてしまっては本末転倒と言わざるを得ない。

 余談になるが、作中にはアリスもテレスも出てこない。学生時代に古代ギリシアの哲学者・アリストテレスの名前をクラスメイトが「アリスとテレス」と呼び習わしていたことに面白みを感じたから、という話をパンフレットで語っていた。作中にアリストテレスのものであるかのような言葉はあったが、作品のテーマ自体は別にアリストテレス哲学を下敷きにしているわけではないように見える。僕自身アリストテレスについては浅学のため、見る人が見ればアリストテレスだねとなるかもしれないが、個人的にはむしろニーチェやキェルケゴール、サルトルに親和的ではないかと思う。間違ってるかもしれない。

 ともかく、結論としては個人的に好きな作品ではなかった。『さよあさ』のほうが岡田監督のフェティシズムが全面に出ていて良かったのではないかと思う。

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