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夏雲にかえり見すれば来し方の行き脚の影ふと映し見る

 門田充宏さんの小説『風牙』と『追憶の杜』に出てくる架空技術(実用化されるかもしれない技術)の中に、情報流《ストリーム》と呼ばれるネットワーク技術がある。

 情報流とは、その名の通り現在のインターネット上に存在するあらゆるサービスを統合した情報が流通する場であり、ネットワークそのものと言える存在だ。『六花の標』(『追憶の杜』収録)の記述によれば「メールやショートメッセージサービスなどのプライベートなものから、ソーシャルメディアやウェブといったオープンなものまで」もここに含まれている。これとセットで自動情報収集機能とでも言うべき巣穴《ネスト》があり、情報流から個々のユーザーの興味や嗜好に合わせて自動的に情報を選別・収集しているという仕組み。
 このくだりでは情報流についてとても丁寧な解説がされているのだけど、作品を構成する重要な要素だと思うので、これ以上の引用はしない。詳しく知りたい方はお買い上げの上、ご確認ください(※1)。

 これだけでも情報流が到底個人が扱えるものではないことがわかると思うけど、情報流の出現はその逆なのである。つまり、従来の方法──私達がいま扱っているインターネット、Webサービス全般へのアクセス方法──ではネットワークの高度化と情報量の増加に対応できなくなったため、情報のやり取り(主に取得)をほぼ自動化して、個々のユーザー向けに最適化するために情報流が作られたというのだ。
 インターネットが当たり前の使用できて、スマートフォンなどの携帯デバイスの発展と普及から手軽にデータベースへアクセスできるようになった2010年代発の小説ならではの発想だと思う。


※1:『風牙』、『追憶の杜』ともに、人間の記憶をレコーディングして第三者にも疑似体験できる汎用化データを作成する技術を扱う記憶翻訳者《インタープリタ》の物語を収めた中編集。現代から近くはないが遠くもない世界をもっともらしく見せている要素の一つが情報流だと思う。東京創元社刊。電子書籍もあり。なお、門田充宏《もんでんみつひろ》さんであり、門田《かどた》さんではない。


 ここまで読んできて、それって私達が普段手動でやっていることじゃない? と気付いた人は「ネット内で行動する時はきわめて慎重になっている(※2)」人だろう。

 少なくとも私はそうだと思う。

 以前Twitterで「自分のタイムラインだけを見ていると情報が偏るだけでなく、視野も偏るの注意が必要」といった主旨のことを書いていた人がいるのだけど、これはFacebook、InstagramなどのオープンなSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)であればは相通ずる事だと思う。noteもオープンかつタイムラインが明確にあるという点で、LINEよりもSNSの性質が強い気がする。


※2:レイヴェン「サージ。ネット内で行動する時はもっと慎重になれ」(TVアニメ『VIRUS -VIRUS BUSTER SERGE-』1998年より。この台詞を放ったレイヴェンを演じたのは故・鈴置洋孝さん)


 こんな事を書いているのは、ふとしたきっかけから──半ば意図的だったとはいえ──noteをかなり偏った視界で見ていたことに気付いたためだ。


 ぶっちゃけ、興味がない情報があると知った上で視点を偏らせるのはアリだと思う。それこそ個人が把握できる情報量ではない。

 けれど、その絞り込みを行う際に視界から外した情報は、どのような内容だったのかを知っておくことも大切だと思っている。これをやっておかないと、要不要の判断と十分想定できるはずの状況が想定外の状況になってしまう危険がある。ひと言で言うと、準備不足(※3)。

 とはいえ、人間には限界があるし、自分の程度などたかがしれているから、恐々と動いている。この記事にしても一体どんなきっかけがあって、具体的にどんな偏りを感じたのかを書いていないのは恐いからである。あえて書く必要がないということもある(だったらなおさら書かない方が良い)。


※3:うーん……常体(だ。である。調)で書いていると、こういう文章が偉そうな感じになりそうなのが難点だなぁ。


 そんなわけで、少し自分の周囲を見回してみたら、これは使い方を変えた方が良いなぁ……と用法を再考すべきWebサービスが出てきた。
 質《たち》が悪かったのは、短期的に見ればこれという問題は無く十分使えるのだけど、長期的に見るとデメリットしかなかった点である。
 ああ、7月末頃にもクラウドサービスを見直してみたら、結果的にクラウド周りの設定をいちからやり直す羽目になったっけ。

 noteについては幸いにして修正する必要はなかったけれど、記事に取り上げようと思っていた話題をいくつか没にした。
 あとは、規文堂さんがnoteへ進出されたので、過去に経験した図書館勤務の話題を出そうかと思っていたのだけど、これも現場を離れてもなお公開してはいけない(と私が考える)話題を除いてもなお、かなり慎重に選ばないと記事で取り上げられないかなぁと思ったり……。
 ホントに幸いにしてそんなとこだった。


 ところで、今回の題名は和歌なのだけど、一応解説を載せておくとこんな風情である。

 
 夏雲にかえり見すれば来し方《こしかた》の行き脚《ゆきあし》の影ふと映し見る(※4)

 
 さすがに「来し方」と「行き脚=行足」は、滅多に使わないと思うので、読み仮名を振った。行足を行き脚としたのは蜘蛛に掛けてあることに気付いてもらうためで、これはWeb=インターネットに繋げたつもり。
 ……なのだけど、もう古語の知識が錆び付いているので、ちゃんと歌として読めているかの自信はない。

 学生時代は『伊勢物語』を原文で読める程度のおつむはあったのだけど、いまはもう無理だと思う。今回にしても、いくつか言葉の意味を間違えていないか不安になって辞書を引いたし。


※4:夏雲が蜘蛛に掛かっていることと、蜘蛛=蜘蛛の網《くものい》で夏の季語だと気付いた人は、歌人でしょうからお手柔らかに願います。


 図書館員時代はそこまでの知識は必要なく、むしろ全体を見渡せるように知識の裾野《すその》を広げることが求められた。特に、大学図書館だと大学ごとに得意分野があるので、その度に知見を広げる必要があって諸先輩方や上司同僚職員の皆さまには大変お世話になったものである。

 わからない事があると即聞いたからね、こいつ。

 自分で調べないのか? と思う人もいるかもしれないけれど、ことアカデミックな知識に関しては知っている人へ質問するのがいちばん良い。現場にいるときは特にそう。自前でやるのは教わったことの復習と、その時もらったきっかけから改めて調べて知識を補強することだった。
 ちなみにこれ、普段の人付き合いにも応用できる。


 いまの情勢では当分無理だけれど、互いに機会を作っては二人旅行する大学の同期ハルサメ氏との会話は、質問と回答の往復になるときがある。

 あっちが知らないことをこっちが話題に出すと彼は聞いてくるし、こっちが知らないことをあっちが話題に出すとすかさず私は聞く。これについて遠慮もしなければ恥とも思わない。

 だって、お互い様なんだもの。

 あとは、相手が知らなかった場合、「意外だ」と驚いたり「ありゃ?(当てが外れたの意)」などとこぼすことはあっても、呆れたり見下したりはしないことかな。
 そして、自分とは違いすぎる価値観を目の当たりにしてかつ肯定できないときは、そういう価値観もあると認識して否定しない。まあ、「それはどうかなぁ?(思いっきり苦笑)」くらいは言うけれども。


 ところで、この記事をマガジンに含めるか迷ったのだけど、記事収録数が十に達し十二をひと区切りするつもりなので、区切りの前に反省文(ネタを没にした云々のくだり)めいたものを書いておいた方が後で消しにくくなって良いかな、と思い至った次第。


※ヘッダーを短冊に見立てるのは、もっと早く気付けば良かったと思う。段落ごとに改行して縦書きで対応させることも考えたものの、なんだか標語みたいで好きじゃなかったので横倒しにしてみた。絵的には短冊を意識して欲しかったこともある。


BGM/DAOKO×米津玄師「打上花火」作詞作曲編曲:米津玄師


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