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死刑執行ボタン分散型社会

これは想定外でした。
https://m.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5ebb58afc5b6ae915a8be073?ncid=fcbklnkjphpmg00000001
 
去年と比べ、4月の自殺者が
400人以上も減っています。
 
それでも1ヶ月で1400人が
自殺してるわけですが。。
 
ちなみに新型コロナ感染症で
亡くなったのは今のところ
累計で700人ほどです。
 
まだデータが出始めですので、
これからどうなるか次第ですが、
もしこのまま自殺者数が
減っていくとしたら、
人を殺しているのは
お金でもウイルスでもなく
「人」だということが
再認識されるのかもしれません。
 
そうなった未来にはさらに、
非接触、非対面、非集合の社会が
より強固に形成されていくのでしょうか。
 
「人と共に生きるのはリスク」
とされ、社会的動物としての
原則が覆る時代なのでしょうか。
 
 
「すべての悩みは対人関係」
と喝破したのはアドラー先生でしたが、
彼は解決策として、
人と関わらないことを提唱したわけではなく、
「他者貢献こそが最高の幸せ」
と説きました。
 
「勇気をもって人との関係構築に一歩踏み出せ」
それがアドラー心理学の
本質だと僕は捉えています。
 
しかし、こと日本人には
このマインドセットは難しく、
結果として対人関係の悩みから
自死を選択するまでに
至ってしまうということが
数字で証明された形に
なってしまったのかもしれません。 
 
 
昨今の「自粛警察」の、
実に勤勉な活動を見て感じるのは、
「郷に行っては郷に従え」の村八分精神が
日本人のDNAには深く刻み込まれて
いるんだなということです。
 
そしてこの「村」は今日、
インターネットの発達により、
サイバー空間で広大に広がっています。
 
まさにウイルスに感染するように
「郷に従う村人」が増え続け、
それに比例して村八分にされる人も
増えていくと考えると、
非対面というソリューションは
もしかすると日本人にとっては
ある種の救いになるのかもしれません。
 
自分たちで作った村の掟を
必死に守ろうとするあまり、
「少しのズレも許されない」
というミームが村に形成され、
掟を破った者は吊るし上げて
袋叩きにし、血祭りに上げる。
 
残念ながら、僕らの脳は
そんな行動に快楽を感じるように
できているんです。
 
仮想敵を作ったり、
誰かを生贄にすることで、
集団の結束がより強固になるのも
事実だからです。
 
この事実によって、
掟を破った者を積極的に見つけ出し、
率先して槍玉にあげることは、
集団への貢献になり、
村においての正義になるわけです。
 
ただし、その正義感に酔いしれて
快楽にひたれるうちは良いが、次第に
「自分は掟を破っていないだろうか」
と疑心暗鬼にもなるでしょう。
 
気づいた時には自らが作った掟で
自らががんじがらめになってしまって、
恐怖におののくようになる。
 
ひどい時には文字通り自分の首を絞め、
死にすら至ってしまう。
 
それが日本という村、
日本人という民族の
本質なのでしょうか。
 
あるいは動物としての
本質なのでしょうか。
  
 
ある統計によると、
人々がいま恐れているのは、
感染や感染による死ではなく、
感染のレッテルによって生じる
差別や迫害だそうです。
 
正直、今の状況を見ていると
僕もそう思います。
 
「熱出ても病院行きたくねーな」
って。
感染ゼロのところとか尚更ですよね。。
 
 
そのうち、
この差別や迫害を苦に自殺、
なんて事案も出てくるかもしれません。
 
そして、そういった差別や迫害は、
これまでも会社や社会に常態化していた
ということなんだと思います。
 
今はたまたまコロナに
焦点が当たっているので、
それで自殺なんてことになれば
ニュースにもなるでしょうが、
そうでなくても普通に
月に1000人や2000人の単位で
自ら命を絶つ人がいるんです。
 
 
僕の好きな『暗殺教室』は、
エリート学校の中の「エンドのE組」という
落ちこぼれ組を描いた漫画です。
  
システマチックにE組に落伍者を集めて
わかりやすく差別することで、
その他のクラスの生徒たちが
優越感を感じながら生活できる
という仕組みです。
 
漫画ですので、デフォルメされて
コミカライズされてはいますが、
これは学校だけでなく、
僕らのこの社会全般にはびこる、
ごく普通の事実なんですよね。
 
職場で成績を上げられなければ
嫌味を言われ窓際に追いやられ、左遷される。
 
逆に成績を上げ過ぎれば妬みや嫉みを買い、
「出る杭」として打たれる。
 
目立った発言をすれば
SNS上で中傷される。
 
自粛中に長距離移動すれば
車をボコボコにされる。
 
 
死刑執行のボタンは、
ボタンを押す人の罪悪感を
分散させるために
3つあると言われますが、
差別や迫害の加害者たちは、
その人数分だけ罪悪感が分散されます。
 
そして正義の名の下に、
無数に分散された執行ボタンを
日夜押しまくるわけです。
 
罪悪感など皆無、むしろ世直し。
掟を破ったものは制裁を受けて再起不能が当然。
そして直接的な鉄槌を下したのは
自分ではないから、
対象が死のうが破滅しようが関係ない。
 
その実、彼らはその行動のモチベーションが
人間のごく低位の欲求を満たすための衝動だとは
知る由もないのかも知れません。
(こんなことを書けば僕も血祭りでしょうか)。
 
 
残念なことですが、今の日本には
そんな悲しいパワーが
充満しつつあるようにも思います。
 
  
かつて、
隣人の粗を探し合っては「非国民」と叫び、
罵詈雑言を浴びせて暴行を加え、
殺害や自殺に追い詰めたような時代から、
果たして僕らの精神性は進歩したのでしょうか。
 
今また、同じことを
繰り返そうとしているのでしょうか。
 
ずっと本質は変わらないだけでしょうか。
 
 
だとすれば、不本意ではありますが、
やっぱり人と対面しない社会の方が
まだ平和で文化的だと言えるのかもしれません。
 
 
 
僕は青少年の社会教育活動に長年、
ライフワークとして携わっていて、
リアルでの仲間を作ることや
自然の中でリアルの体験をすることを
善とする立場にいますので、
基本的には今の流れには逆張りしたいです。
  
ウイルスなんて死なない程度に
どんどん取り込めば良いし、
濃厚接触して体液交換すれば良い。
そうやって人類は免疫を獲得してきた。
 
間違って腐った水を飲んだり、
変な虫に刺されたりしながら体を強化し、
情報を共有してリスクをコントロールし、
助け合って生きてきた。
  
未来を担う子供たちには
そんな体験を提供したいし、
喜びや感動は握手やハイタッチで
思う存分、共有してほしい。
ずっとそう思ってきました。
  
でも、そんな気持ちとは裏腹に、
こんな世の中の状況を鑑みれば、
「非接触 非対面」という新しい価値観を
僕らは、日本は、いち早く受け入れる
べきなのかもしれないとも思う。
 
よく言えば、日本人には
非接触、非対面の世界を
受け入れるべき下地が
整っているということだから。
 
少なくとも、
お互いに死刑ボタンを押し合うような
生きづらい世界よりは、
ずっと良いのかも知れません。

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