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大人に成長した私の話 / 星の王子さまはなぜ「星の王様」ではないのか?

今回のエッセイには、タイトルが2つあります。
「大人に成長した私の話」と「星の王子さまはなぜ『星の王様』ではないのか?」

内容が見えてこないと思います。

この2つのタイトルの意味を感じながら読んでみてください。


2005年、春。
年長さんになった5歳の子供「まぐろ」こと、私。(まぐろとは、このnoteで使用しているペンネームのようなものだ。)

幼稚園という狭い世界の中ではあるが、年少に比べれば飛躍的成長を遂げているはずの最高学年だ。
チビながら大先輩に出世したまぐろ。
にも関わらず、とても“年長さん”とは思えない態度で幼稚園の先生を困らせていた。


まぐろは水に顔をつけるのが怖くて、プールの授業が大嫌いだった。まぐろのくせに。
当日の体温や体調のチェックシートは真面目に記入して持ってくるし、水着にも着替えるものの、授業が始まる直前になってごねだすのだ。
先生に理由を聞かれても、むごんでくびをふり、頑なにプールに入らなかった。呆れた先生が「じゃあ座って見ていて」と言うと、従順にも薄情に、すぐベンチに座った。

それ以降も、毎回水着に着替えるだけ着替えて、今日こそは…的な雰囲気を醸し出しておいて、ベンチに座る。この行為を繰り返した。授業が終わって着替えるスピードだけは誰にも負けなかった。だって全く濡れていないのだから。

ある日、プールにばらまかれた個包装の飴を取ろうという時だけ水中に入った。顔は水につけないよう、自分とその日の見学者の分まで飴を取ってやり、すぐさまベンチに戻ってドヤ顔をかました。健全な見学者と、健康で不健全な見学者との格の違いを見せつけていた。

面倒くさい奴だと思われたことだろう。


まぐろは、プール以外でも「むごんでくびをふる」という必殺技を頻繁に繰り出していた。

みんなの前で発言をすることがとにかく嫌だったので、授業中に当てられそうになれば机の下に潜った。先生に見つかり、どうしたのかと問い詰められると、むごんでくびをふった。

ある日の授業時間には教室から姿を消し、校庭の端に置かれた備品倉庫の裏で、ツルツルの泥団子作りに励んでいた。探しに来た先生たちに見つかると、何を聞かれてもむごんでくびをふった。

今考えれば、よく卒園させてくれたと思うほどの迷惑行為だ。




そんなまぐろは小学生に進化すると、驚くほど真面目になった。いや、幼稚園の頃から真面目ではあったのだが、自分の欲のままに行動しすぎていたのだろう。
小学校では欲を抑え、よく勉強し、ルールを守り、授業では手を挙げて発言もする。首は振るなら縦に振る。最初は泣きながらではあったが、プールの授業にもしっかり参加した。

次第に周りから「偉い」「優秀」「真面目」という言葉を多く浴びるようになり、自他共にそのイメージが定着していった。

まぐろは偉いから、こういうことをしてくれる。
まぐろは優秀だから、こんなことができる。
まぐろは真面目だから、ここまでやってくれる。

…と、みんなに思われなくちゃ。


私は、周りが持っているであろう"私の理想像"への期待に応えるために行動する、立派な「大人」になっていた。


何にも染まっていなくて、素直で、やりたいことをやりたいと言い、嫌なことは嫌だと言う。自分の意志のままに生きる。

大人になったらそんなことが世間に通じるわけがない、と誰もが言うだろう。

飛行機が飛ぶのを当たり前だと思う
空が青いのを当たり前だと思う
「そんなことが世間に通じるわけない」を当たり前だと思う

大人は過去の姿を失い、目に見える現実に疑問を抱かないようプログラミングされる。みんな見た目は違えど、量産された機械のようだ。




『本当に大切なことは目に見えない』
そう我々に伝えて消えた星の王子さまは、なぜ王子さまだったのだろう。

なぜ、王様ではなかったのか。
なぜ、子供でなくてはならなかったのか。

登場人物が「大人」では成立しない、という作者サン・テグジュペリの考えによるものだろうか。
だとしたら、情けない話だな。


幼稚園時代の、よく言えば自由奔放で、周りなんて関係なく私はこうだ!という"自分"を持つまぐろは、過去の姿になった。



もちろん、プールの授業は自分の身を守るための学習であると分かっている。嫌いであってもやらなきゃいけない。私が言っているのは、子供のわがままを何でも通すべきという話ではなくて…

だめだ。こんな言い訳を書こうとしている。
私も周りと同じ「大人」のうちの一個体に過ぎないのだろう。

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