生きるとは、なんですか
ここ最近、ずっと考える。
20代ならではの若い悩み、壁や軋轢に苦しむ感覚。失う怖さ。手に入れる喜び。
私がこんなにも心をぐちゃぐちゃにして生きる必要な何なんだろうか。その意味を考える。
(今回はいつものエピソードトークとは少し変わってお送りいたします)
失うことの脅威について
人を失うのは怖い。
それは永久的に死別すること、半永久的に心の中で殺すこと、どちらにしてももう帰ることのない記憶たちを追憶させてしまうこと。
思い出という綺麗な言葉に閉じ込めても、いつしか蓋が開いて溢れてしまう。それが失う辛さだ。
最近、失うことが多い。
自分の大切な人を、大切だと思っていた人を。
正直、辛いのだ。
誰も、失いたくない。
悲しい思いをしたくない。
失ってしまうときは、自分の無力さを痛感する。自分が何もできないことを、結局人は一人で生きていくということを。
人は無力である。自分以外の人間にとって。
最後は一人である。救えるのは自分しかおらず、自己解決しか方法はないのだ。大切な人たちには、たくさん苦しい思いをしてでも、自分を救う方法を見つけて欲しい。
私はあなたたちのことを支えることはできるが、根本的な解決は何一つしてあげられない。
自分を救う言葉をたくさん持つこと
私はいつも言葉に救われる。
自分を律するために持っているツールはきっと人によって違うだろう。それが音楽の人もいれば、絵の人、仕事の人、想像はつかないが沢山の道具たちがある。
人は自分が救われる言葉でしか、人を救うことができない。
自分の感情、どうしようもなさを言語化することで自分を保つこと。他人から拝借した言葉で己を律すること。これを私は言葉に救われると呼んでいる。
だから、書く。綴る。読むし、見るのだ。
たくさんの作品に触れることは、多くの価値観に触れていくことだ。精査された本質的な問いを自分の中に落とし込めるということ。一つの作品に関係する人たちが多いというように。
いつか、私を救ってくれる言葉を探している。
救ってくれた言葉、名言の紹介
よく、人の名言というものをメモしている。
響いたドラマのセリフ。映画の名言。著名人が放った言葉など。名言集を見に行くのも好きだ。
熱い言葉や優しい言葉、突き放す言葉。とにかく私の心を揺るがすのだ。
少しだけだが、生きることについて書かれた言葉を紹介する。
これが、私の生きていくことについて、考えさせてくれる、手助けになった言葉たち。
私は私のために、生きてきた
さっき紹介した言葉たちに共通して言えるのは、
何に対して生きていくのか、生きる上での対象があることだ。
これが私の根底にある生きるということなのではないか。
私は私のために生きてきた。
私が行きたいと思う学校を選び、友達を選び、好きな趣味を見つけ、やりたい仕事を選び、自分が一番望むことはなんなのかを考えて生きてきた。
そこには理屈でなく、感情で動くところがあって「やりたいからやる」が基本スタイルだった。
人の意見を参考にしたり、例えば親などの他人が望んだことを叶えたとしても、その人生を生きるのは自分だ。私を生きるのは私なのに、どうして他人の望みを叶える必要がある?と思うのだ。誰も、私の人生に責任など取ってくれない。お前はお前で生きろ、と突き放す。
自分の望むことに耳を傾けて生きるのはとても心地よいし、生きていることを実感する。
もちろん、助言には耳を傾けるし、横柄に選択し続けるわけではない。あくまで自分のできる範囲で選択をしていくのだ。
何のために生きているのかわからない
しかし、失うことや悲しいことが続くと、人は「自分が望むこと」なんて分からなくなってしまう。
悲しい気持ちが助長させる、無力感と喪失感は絶望を生み、考えることをやめさせてしまう。
自分が、なんのために、生きているのか、わからなくなるのだ。
別にいてもいなくても変わらないじゃないか。
自分が大切にしてきたものが簡単に失われてしまって。自分には何もできなかったと、自分は誰かを変えることができないと。悔しくてたまらない。
救えなかった人がいる。
何もなかった自分がいる。
この事実がたまらなく辛いのだ。
もう、誰も失いたくない。
竈門炭治郎並みに私は歯を食いしばり、剣を振るうのだ。
生きることは苦しさや悲しさ、自分の弱さを享受して受け入れることだ、と私は思う。
弱さと強さについて
強いとは、弱いの対義語だ。
弱いの反対は強い。
だから、弱いものを強い者が守る。
確かにそうだが、そうじゃない。
弱いから、強いのだ。
弱いことを受け入れるから、強くなれる。
大好きなアニメの一つである、鬼滅の刃を見ながらそう思った。
出てくる登場人物は、鬼狩りをするというだけあって肉体的にも強く、精神的にも強い。その背景には大切な人を失ってしまった過去やどう振り返っても悲しすぎる過去がある。
自分が弱かったばかりに、失ってしまった。傷ついてしまった。
その悲哀を強さに変えているのだ。
たまらなく心を揺さぶられた。最初から強いわけではなく、傷ついて失って、もがいて苦しんで、強さがついてきた。
私も自分の弱さを認めようと思った。
自分の何もできなさも、無力感も喪失感もすべて。私は弱いからできない。
弱いの反対は強いだ。
だから、強くなることができる。
生きる意味とは
私は私のために生きてきた。
しかし、失う度に絶望して、何のために生きるかわからなくなった。
いてもいなくてもいい存在なら、いなくてもいい。そう思った。
私が私を失いかけたとき、支えてくれる人がいた。自分の環境には、大切に思ってくれている人、心配してくれる人、そばにいてくれる人、一緒に笑ってくれる人。たくさんの人たちに囲まれていた。
失ってから気づくのでは遅いのだ。
鬱々とした暗闇から抜け出したとき、光が見えた。そこで初めて暗闇にいたことに気づく。
私は私のために生きることを、やめた。
私は、私の大切な人、好きだと思う人、この人たちを守るために生きる。
自分のために生きるのはもう飽きたのだ。
もう十分やって、自分のために生きる自分は死んだ。
大切な人のことを思う。
この人のためなら、と覚悟ができる。
私は弱くて強い。脆くて繊細で幼気な人間であるが、同時に柔軟で強靭でしなやかである。
いや、強くならなくてはならないのか。
誰かを守るための強さを、私は持つ。
大切な人を守るために、私は生きる。
それが私の生きるということです。
2024/01/25
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