小さき者へ

最初に言っておくと、今日の記事は長いです。簡単に言うと、「有島武郎に学ぶ、親にできること」が、今日のテーマかなぁ。


「にほんごであそぼ」のコンサート放送(福井)があったようで、録画してあったものを皆で見た。

今回のコンサートはいつものOPやEDじゃなくて、何故か「小さき者へ」が流れていた。普段のテレビ放送でも流れたことがあるこの曲。元は有島武郎の小説…と言っていいのか、自身の子どもに向けて書いた手紙のような文章(の最後の方)なのである。

曲だけだととても前向きな感じがして力強く素敵なのだけれど、元の文全体を読んだり、その後の有島武郎の人生を考えると、途端に何と言っていいかわからない感じになる。

この文を書くきっかけになったのは、有島武郎の妻の死で。残された子どもたちに向けてこんな文を書いたのに、その数年後には有島武郎は愛人と心中しているらしいのである。

母を病気で亡くした子どもたちに「不幸なものたちよ」って散々言ってたのに父であるあなたも自らいなくなるんかーい!と思わずツッコんだのは多分私だけじゃないと思う。

いや、まぁ確かに。父を踏み台にして越えていけ、父を振り捨てて人生に乗り出していけという感じのことを書いていた。でもね、それはね。そういう退場の仕方の親に対してすんなりできるものではなかろうよ。子どもたちに更にいろいろ背負わせてどうするのだよ。

と、最初は思ったのだけれども。

考えれば考えるほど「親」というものがわからないというか、結局私も「親」である前に同じような「人間」なんだよなぁと思うようになってきた。

私は息子を産んだ時に死にかけていて。有島武郎が生きていた時代ならば、まず間違いなくその場で死んでいただろうと思う。残されるのは産まれたばかりの息子と夫。しかしその時に私が何を思うのかと言えば。きっと、2人の今後を案じる気持ちよりも、「息子を産んだ満足感、達成感」の方が大きかっただろうと思うのだ。おそらく自分のことを一番に考えて、その後「よく考えたら2人になっちゃうんだな。大丈夫かな」と少しだけ思ったかもしれない。

幸い私は生きていて、「息子を育てる」ということを4年と8ヶ月ほど体験できている。大変だったこと、苦労したことはもちろんそれなりにあって、今も試行錯誤の日々である。しかしそれは全て「私が経験したからこそ知ったこと」であって、「産んだ直後に想像できたこと」では無いのだよな。当たり前ながら私は普通の人間で、決して立派な親ではないのである。

正直なところ。今の夫と息子はそれなりに仲がいいが、だから相性がいいのかと言えば疑問は残る。おそらく夫は息子の繊細な部分を理解できていないし、私がいなければ息子は確実に今よりも自分を押さえつけられていただろうと思う。夫は夫で、1人で子育てをするというのは間違いなく今よりも大変だし、余裕もなく、子育てを「楽しい」、子どもを「可愛い」と思えていなかったかもしれない。

そんなのは、今の姿を見た上での私の「想像」でしかないのだけれど。産んだ直後の私はそんな未来を欠片も想像していなくて、きっと「自分の満足感」だけを抱えて死んでいっただろうと思うのだ。そんな私が、有島武郎を自分勝手だなんて言えるのかなぁ、と。

結局のところ「親」と言ってもただの普通の「人間」だし、何となく思い浮かぶような「親はこうあるべき」みたいな立派なものではないのだよなぁと思ったのだった。

作家という仕事は、おそらく「普通の感性」の持ち主には難しい仕事で。何かしら他と違うところがあるからこそ読者が「面白い」と感じるわけで、そこには「繊細さ」が必要な部分もあるのだと思う。「他と違う」「繊細である」というのは生き辛さを感じる要素だし、実際彼の文章を読むと(私は『小さき者へ』しか読んだことがないのだけれど)「繊細な人だなぁ、自分のことでいっぱいになりがちな人なのかなぁ」と感じる。

残された子どもに対する愛情は、確かに文章から感じるのだ。でも、彼は子どもを残して自ら死んでしまった。彼は彼なりに、子どもを愛していて。けれど最終的にはそういう選択をしたのだ。

残された子どもたちが『小さき者へ』を読んで何を思ったのかはわからない。全く関係ない私が読んでさえ複雑な気持ちになるのだから、当事者は言葉で表すことはできない気持ちだろうと思う。けれどそれは、親である彼にその時できた精一杯で、「無いよりはあった方がいいもの」だったような気が何となくするのだ。

そもそも「親が子どもにできること」って何なんだろう?

子どもの人生は子どものもので、だから何か起こってもそれを乗り越えるのは子ども自身の力でないと駄目だと思う。自分で考えて、動いて、失敗して、学んで。自分でやるからこそその子の力になるわけで、親が代わりにやったのでは意味がない。

そんな中、親にできることって何なんだろう?

子どもが苦労しないように、と思う。少しでも楽に生きられたら、と思って、ついいろいろやってあげたいと思ってしまう。でも、子ども自身がある程度苦労して自分で乗り越えていかないと、その子の力にはならない。じゃあ親にできることって、一体何があるの?

そう考えた時に、有島武郎の文章は、ひとつの答えでもあるのかなぁと思ったのだ。

小さき者よ。不幸なそして同時に幸福なお前たちの父と母との祝福を胸にしめて人の世の旅に登れ。前途は遠い。そして暗い。然し恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。
 行け。勇んで。小さき者よ。

自分を愛してくれている人がいる。自分を応援してくれている人がいる。だから何かあってもまた前に進んでいける。そう思える原動力の1つに親がなれたら。それは親の理想の形のひとつじゃないかなぁと思うのである。そしてそんな文章を残せた有島武郎という人は、(実際に子どもがどう感じたかは別として)親として生きようとした部分も確かにある人なのだと思う。

まぁ、だからと言って、あえて子どもの人生をハードモードに設定する選択をしなくてもいいだろうとは、思うのだけれども。

子育てをしていると、悩むことばかりである。何が正しいのかは全然わからないし、たぶん正しい「これ」というものは無いのだと思う。選択肢なんて1日で考えても無限にあるし、その結果が出るのは何年、何十年も後。特別すごい力があるわけでもない「親」という存在にできることなんて限られている。し、子どもの人生は子どものものだから、彼ら自身が考えて、その場その場で何かを選択して生きていくしかないのだと思う。

それでも親ができること。何があるんだろうな。大好きだよと言ってみたり。一緒に悩んでみたり。辛い時に傍にいてみたり。背中に手を置いてそっと押してみたり。たぶんそんな役目は小さいうちだけで、大きくなればそれは友達だったり恋人だったり配偶者だったり、そんな人にかわっていくのだろうけれど。親が適任のうちは、なるべくやりたいな。そして子どもの人生を、少しだけ「やさしい」ものにできる手助けができたらなぁと思う。子ども自身で乗り越えて行かなきゃなぁという気持ちもあるから、その辺の塩梅は本当にわからん!と思うのだけれども。

私は普通の人間で、だから自分のことを一番に考えてしまうけれども、それでも息子のことは大事だし、「幸せだったな」と思える人生を歩んで欲しいのである。自分の力で生きていって欲しい。自分で道を切り開いていって欲しい。そんな願いを込めて、母はあなたの名前を付けたのだよ。

行け。勇んで。小さき者よ。

親にできることはまだまだわからないのだけれど、あれこれ考えて少しだけ見えてきたものがあるかもなぁと思ったのだった。


ではまた明日。