120週

noteを書き始めて120週になったらしい。バッジをもらった。


120週が何日なのかというと、この記事を書きだす前が833日だったのでその辺なのだと思う。

ちなみに次は180週でバッジがもらえるらしい。全然ピンと来ないけれど、1200日は超えているっぽい。

更に言うならその次は360週で、一応そこで○週連続バッジは終了している。2500日くらい、7年弱というところだろうか。あまりに長すぎるし、さすがにそこまでやっている自信は無い。


最近、「何で私は書き続けているのだろう?」と考えることがある。

800日を過ぎて今更かよ、て話でもあり。いままでに何度も浮かんでは消えてきた疑問ではあるものの。1000日が近付いてきたことで改めて考えることが多くなってきた。

朝起きてnoteを書くことはもはや習慣なので、よほど何かがない限りは続けることができるだろう。文章を書くことは苦ではないし、むしろ好きだし、だからここまで続けられたのだと思う。正直、ここまで続けてきたら、書くことに「特別な努力」なんぞは必要ないのである。普通に書けば普通に投稿できる。800日続けるってそういうことだ。

ただ、「できる」からと言って「やり続ける必要がある」かと言えばそんなことはないし。そこには「やり続けるだけの理由」がきっとあるのだと思う。


人が思考を変えるのに一番有効なのは「本を読むこと」なのだと言う人がいた。本、つまり文章は、何度も読むことができるし。自分のペースで咀嚼できるし。自分の中に落とし込んで自分のものにしやすいのだとか。

音楽や映像や話すことや。そういうものももちろん、新たな刺激になるし、感動するし、学びもある。ただそれらは動いていくものだから、「自分のペースで何度も繰り返して取り入れていく」ことが難しい。本当に自分の力としたいのなら「本を読むこと」が一番なのだとその人は言っていた。

だからまぁ、歴史的にも焚書というものがあり。都合の悪い文章は消してしまえーという話になったりもするのだけれど。

書いた人がその場にいなくても、文章さえあれば響いた人の思考は変わる。それが上の人たちにとって都合の悪い思想であった場合。じわじわとしたものでも人々の中に落とし込まれ、脅威になるのだそうな。それだけ文章はすごい力を持っているという話。


まぁ、「他人の思考が変わるかどうか」は読んだ人の問題だし、その人がしたいならすればいい話なので私には関係ないものの。「自分の思考が変わるかどうか」って自分で文章を書く場合にも適用されるのかもなぁと、その話を聞いた時に思ったのだった。

自分で書く場合でも。日常であったことを何度も自分のペースで咀嚼して、自分の中に落とし込むという作業はあると思う。まずあったことを「文章化する」という時点で、思い出すし、言葉にしなければならないのである。

毎日文章を書き続けることで、確実に変わったことはあると思う。

まぁただ、だからと言って。それが「毎日続ける理由」にはならないのだけれど。


いろんなものに触れて「だから毎日続けてるのかなぁ」と思うことはあれど、「これだ!」とピンとくるものはない。

少しもやもやするような、ぼんやりしているような。そんな感じでこれからも続いていくのかも。



ではまた明日。

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