小説 空気 10 運

クラスのみんなが帰っても、私はなかなか立ち上がれないでいた。
川上先生に何か言わないといけない事があると思ったが、何と言おうか考えていた。

教室の中は、私と川上先生だけになった。

先生はテストの丸付けをしていた。
私は先生の机へ静かに近付いていった。
先生の側まで来ると、先生はこちらを一瞥もしないで言った。
「運が良かったわね。高田くんも正直で。」
川上先生が解決してくれたと分かった。
「あ、あの、どうして信じてくれたのですか、私ではないって。泉先生だって周りの人たちだって、みんな私だと思っていたような気がしましたけど。」
赤ペンを持つ、先生の手の甲に浮き出た血管を見ながら言った。
「あなたのことは信じてないわよ。」
「えっ。」
私は一瞬怯んだ。
「あなたのことというより、本当はどうなのかということよ。そこが知りたかったということかしらねぇ。あっ。」
不正解の箇所に間違えて丸を書いてしまったのか、先生は慌てて丸の上に×を書いた。
「あなた、信じられたかったら、トイレ行ったきり帰ってこないとか、喧嘩して殴り合うとか、そういう事はやめることね。」
先生は淡々と丸をつけていく。
「はい。ごめんなさい。」
そうは言ったものの、やはり納得できてはいなかった。今までならこれ以上何も言わずに過ごしたが、たとえ叱られることになろうと、この人になら考えていることを話してみても良いかもしれないと思った。
「でも先生、前に叱られてからは、取っ組み合いの喧嘩はしてません。そもそも私は自分より上級生の男の子としか喧嘩しないのに、どうしてそんなに怒られるのかな。弱いものいじめではありません。」
そう言うと、先生は大きなため息をつきながら、メガネを取って目頭を押さえた。
「あなた全然分かってないわね。危ないから。女の子でしょう?」
先生はメガネを持った手の甲に顎を乗せて、肘をついた。
「なりたくてなった訳じゃないですよ。」 
私は急にムッとしてそう答えた。
「まあ、それもそうね。だけどね、弱いものいじめでなかったら喧嘩して良いなんてことはないのよ。」
「互角ならいいの?」
先生は赤ペンを置いてこちらを見た。
「だからそういうことではないの。もし、あなたが、あなたより強いあなたと戦ったらどうする?」
「どういう事ですか?」
「たとえば、あなたは今、小学3年生。相手はあなた。あなただけど、中学生のあなただったらどうする?」
少し考えてから答えた。
「問題ないです。」
すると先生は身を乗り出すようにしてぐいと顔を近づけて言った
「よく考えて。相手もあなた。中学生のあなたが、小さな小学3年生のあなたを相手に、本気になれる?」
「あっ。」
相手の強い私は、小さな私を攻撃できない。小さな私のルールは正義でもなかった。何の反論もできなかった。
「対等も強いも弱いも、何をもってそう言うの?喧嘩して良い相手なんていないのよ。最強は、そういいのじゃないのよ。」
「最強?最強って何ですか。」
喧嘩をするなと言われたのに、最強?もっと強く、一番強くなれと言われたような気がして、先生の話には矛盾があるような気がしてきた。そんな私に先生は続けた。
「それはね、戦わずに勝つということよ。」
先生は私を見据えて言った。
「戦わないで勝つ?」
そんなことが出来るのだろうか。驚いて答えた。
「そう。戦わないで、目的を達成する方法を考える。それができたら、最強。」
戦わなくても問題を解決する方法があるのか?
もしあるのなら、それはとても素敵だ。
「なるほど。」
先程のムッとした気持ちが嘘のように晴れ上がった。
「先生、これまで何回叱られてきたか分かりませんけど、初めて喧嘩はいけないと思いました!」
「あなたね、遅いわよ。まあ、分かったならいいわ。」
先生は微笑んだ。

私は自分の席に戻り、ランドセルを背負った。
「あ、佐々木さん、あなたどうしてマス計算を普通に解かないの?」
丸つけの終わったテストを揃えながら、先生は言った。
「つまらないから。」
正直に言い過ぎたかなと思った。
「つまらないなら、早く解いて、教科書でも読んでいたら?」
先生は何とも思っていないようだ。
「読み終わりました。」
「計算ドリルは?」
「やってません。同じような問題多いし、解き方がわからない問題がないから、やりません私。つまらない。」
もっと正直になって言ってみた。
「あ、そう。それなら図書館から上の学年の算数の本を借りてきて。授業中読んでていいから、教室出ていかないでくれる?」
「はい、分かりました。」
正直にどう思っているか言ってみるのも良いのかもしれないと思った。
「先生、私もお願いがあります。」
「何?」
「早く席替えしてください。静かな佐藤くんとか、加賀さんの後ろ、しかも一番後ろの席がいいです。何を読んでいても、何も言われない場所。後ろを向いてきて、やたらと喋りかけてくる人が苦手です。ダメですか?」
先生はどんな顔をするだろうか。
「ははは。分かったわ。」
先生は声をあげて笑った。つられて私も笑った。

少しだけ肌寒い風が窓から入って来た。その風は窓際に飾られた花瓶の枝垂れたセージの花を揺らした。花瓶には、週の初めにお母さんが束ねて持たせてくれた、撫子とミントとセージが活けられていた。
先生は窓を閉めた。閉めながら花瓶のお花を覗き込み、少しだけ顔を鼻に近づけた。
「ミントって本当にいい香りね。」
先生はそう呟くと私の席に近寄って来た。

「そういえば、あなたの席の座布団、誰が作ったの?」
「自分で作りました。」
先生は座布団も見ていたのか。誰にも見られていないと思っていたのに。見られていないから、変な形でもまあいいかと、持ってくることができたのに。私はそれを持ち帰りたくなってきた。
「どうしてそんな形に布を切ったの?」
先生は座布団をよく見ながら言った。
「余り布が入っている箱の中から赤っぽいのと黒っぽいのだけを取り出して、縫い代を考えて、どう繋ぎ合わせたら正方形っぽくなるか考えて、こうなりました。」
私はあまりその座布団を見られたくなかった。恥ずかしくなった。
そんな気持ちを他所に、先生は座布団を裏返したりしながら、さらによく確認するように見始めた。
「布地のつなぎ目とは関係ない、所々にあるいろいろな形の縫い目は何?」
「これは、裏地と繋ぎ合わせて、表地を強くしようと。」
自信がなくて言い淀んだ。
「お母さんから教わったの?」
「これは、自分で考えてやりました。もしお母さんなら、こんな歪な形の布を歪なまま繋がないです。お母さんは、なるべく同じ形のパーツ切ってから縫います。それに、見せるための縫い目もちゃんと規則的に作ると思います。私は、たまたま他の色の布地を入れたくなかったから。」
また言い吃った。
「そう。なかなか良いわよ。この前の国語の時の詩も良かったわよ。」
「えっ、あ、ありがとうございます。」
思っても見ない言葉に嬉しいというより驚きながらお礼を言った。
「絵も悪くないわよ。」
先生は、今日のブランコの一件で私が落ち込んでいるだろうと考えて励ましてくれようとしているのか?
「そうですか?良子はまだ少ししか描いていないのにすぐに終わったと言うのね、とお母さんからいつも言われます。」
「そうなの?」
先生は座布団から私の方へ視線を向けた。
「はい。お母さんは、一度絵を完成させて、しばらく眺めたりお茶飲んだりご飯食べたり昼寝したりしてから、またその絵にどんどん色を入れていきます。壊れるんじゃないかってくらい、描いてしまうこともあるんです。」
この前お母さんと庭で写生していた時のことを思い出しながら言った。
「そう。素敵なお母さんね。良いところに生まれたわね。運がいいわよ、あなた。」
運がいいなんて、初めて言われた言葉だった。考えたこともなかった。先生には何気ない言葉だったと思う。でも私の中では衝撃だった。
「そうですか?」
「ええ。」
私はいいところに生まれたそうだ。川上先生にそう言われると、そのような気もして来た。
「それから、今度大きな手提げ袋を持っていらっしゃい。あなたにあげたいものがあるから。」
「何ですか?」
「内緒。でも、ヒント。重いかも。」
「やだな。」
黄色い帽子を被りながら、また正直に言い過ぎたかなと思った。
「そう言わないでよ。楽しみにしてて。放課後、みんな帰ったら渡すから。内緒ね。」
「はい。楽しみにします。ありがとうございます。さようなら。」
ちょこんとお辞儀をして歩き出した。
「はいさようなら。」
そう言うと、先生は所々に飛び出た椅子を、机に戻し始めた。

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