小説 空気 15 後ろ

 今週はずっと雨の日が続いた。梅雨だから仕方がないけど、外で遊びにくいのが難点だ。難点というのは、外で遊べないというわけではない。
むしろ、雨の日に外で遊ぶのは好きだ。土砂降りの日などは、そこら中に水が流れて、そこら中に川ができて、それらを堰き止めたり蛇行させたりしながら無限に楽しく遊べる。
ただ、お母さんはいい顔をしない。
「服が汚れて仕方ないから、雨の日は外で遊ばないで。」
とか言ってくる。
「じゃあ、家の庭なら、服を着ないで遊んでいいでしょう?汚れないから。」
とか言ってみたら理不尽にも叱られた。
悪さがどこにも見つからないから未だに納得出来ていない。

今日も校庭に大きな水溜りが沢山見えた。休み時間の内に全ての水溜りを回るために、どのように回ったら最短で行けるか、校庭の中を一筆書きするように眺めていると、前の席の加賀さんが急に振り返って言った。
「おめでとう。あなたの妹から聞いたよ。」
「妹増えた事?」
「うん。」
「あ、ありがとう。」
沈黙が流れた。
いつの間にか、私の妹とも仲良くなっていたのか。
それにしても、加賀さんは不思議な人だ。沈黙しても、全然気まずくならない。

いつもとても静かな佐藤くんが加賀さんの席に近づいてきた。
そして加賀さんに何かを囁くように話した。
加賀さんも、そんな佐藤くんと同じような音量で何かを囁いた。
佐藤くんはニコニコしながら席へ戻って行った。

「どうしたの佐藤くん。」
私は机に頭を乗せて、窓の外の空を眺めながら加賀さんに声をかけた。
「この前、ひよこをあげたんだ。その成長を報告してくれたのよ。」
「そう、真面目だね。」

そういえば、加賀さんは植物だけでなく生き物全般に詳しい。家が牧場だからだろうか。この前も、花園で
「これは鶏がよく食べる草だよ。」
とか言いながら草を抜いていた。
「動物が食べるのは植物だから、世界は繋がってるんだ。」
とか加賀さんは言う。私にも何となくわかるけど、加賀さん程はわかっていないと思う。


徳は弧ならず、必ず隣あり。

加賀さんには毎日、誰かしらが話しに来る。
加賀さんには隣が沢山いるようだ。

「あ、それからね、あの花園にタネ蒔いといたから。」
またニコニコしながら振り向いた。
「何の?」
私は急に顔が近づきすぎてのけぞった。
「出てからのお楽しみだ。ははは。」
加賀さんは不敵な笑みを浮かべながら前を向いた。

本当に加賀さんは不思議な人だ。今では私よりも校舎裏の倉庫の裏の秘密の花園を楽しんでいる。

これを知る者はこれを好むものに如(し)かず。
これを知る者はこれを楽しむものに如かず。
楽しめるって最強かもしれない。加賀さんはやはり流石だ。

2時間目の国語授業開始の開始のチャイムが鳴った。
まだクラスの半分も席に着いていないが、先生が授業を始めた。みんな大急ぎで教科書とノートを開いている。
先生は構わず前回の続きから、朗読する人を指名していった。
4月の頃は、
「先生待ってください、まだ教科書開いてませーん。」
とかいう子もいたが、今はもういない。言っても無駄だからだ。
休み時間に用意しておかなかった事を咎められるだけだから、誰も何も言わなくなった。

先生を見ていると、色々なことが浮かんで来る。
ブランコの件を思い出せば、

「子曰く、唯仁者のみ能(よ)く人を好み、能く人を悪む。」
仁者(よい人)は、先入観無く正しく人を愛し、そして憎むことができる。

だとか

「子曰く、君子は義に喩り、小人は利に喩る。」
立派な人は正義によってのも事を判断するが、小人は利益によって判断する。

が頭の中に浮かぶ。

この前の音楽の時間は、これが浮かんだ。

「子曰く、詩に興(おこ)り、礼に立ち、楽になる。」
人は詩によって奮い立ち、守るべき礼儀、規律などによって行動し、音楽や芸術によって人間を完成する。

先生は論語を私に勧めてくれた。私の作るものを褒めてくれた。そしてもっと作りなさいと励ましてくれた。

そんな先生はブラームスが好きだそうだ。

「子曰く、人にして信無くんば、其(そ)の可なるを知らざるなり。」
人でありながら信(まこと、誠実さ)が無ければ、どうしようもない。信のある人は、嘘がない。だから信じられる。

先生は君子で仁者だ。

私は隣ありと言い切れない。徳が無いからか。

「吾(われ)未(いま)だ徳を好むこと、色を好むが如くする者を見ざるなり。」

私のいつもの絶望が襲ってくる。

加賀さん、私はずっと隣には行けないで、後ろにいます。
教科書を開く加賀さんの後ろ姿を眺めながら、刻々と色の変わる心を何とか落ち着かせた。

そしてこの日の学校からの帰り道、とうとうその時が来た。


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