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幸せの尺度

 田中誠が憂鬱そうに時計を見ると、時刻は午後5時になろうかというところだった。あと定時まで1時間の辛抱だと誠は心に言い聞かせる。一方で誠のPCに表示されている、取引先への新製品のプレゼン資料は一向に仕上がる気配を見せない。期日内に仕上げないといけないことは彼は十分わかっているのだが、なぜか作業の手が止まってしまう。こんな状態に陥ると、彼はしょうがないか、と思い、隣の席に座っている入社3年目の後輩の山中正平に声をかける。
「山中君さ、ちょっと俺の来週までのプレゼン資料の作成手伝ってくれない?」
「はい、大丈夫ですよ。」
 誠は山中の返事に一瞬ためらいの間が生じたことに気づいていた。それは何度も自分の業務を押し付けられたら、誰だって内心は断りたくなるだろう。しかも、最近残業が続いている状況も考えれば、さらにその心情は理解できる。しかしそんなことは意に介さず、誠はより詳細に山中に作業内容の詳細について指示を出す。自分の仕事のいわば使い勝手のいい下請けができた誠は、毎回とことん後輩を使い倒し、自分の負担を減らそうと画策する。
一通り説明を終えると、山中は「承知しました。まず今週の金曜日までには一度素案をお送りさせていただきますね。」と作り笑顔を添えて誠に言った。その笑顔を見て、新人は大変だなあ、と他人事のように誠は思った。
 後は適当に時間をつぶして過ごそう。誠は社内のウォーターサーバーでインスタントコーヒーを淹れ、ゆっくりと定時が来るのを待った。コーヒーを飲みながら、せわしなく働いている山中の様子を見て、彼は愉快な気分になる。

 誠が「ただいま」といって家に入ると、その声を聞きつけた息子の公輔が彼の足に抱きついてくる。仕事の疲れが吹き飛ぶ瞬間だ。思わず誠の頬が緩む。
リビングに入ると、貴子が台所でハンバーグを焼いていた。室内に肉の焼ける香ばしい匂いが充満しており、誠の鼻腔をくすぐる。
「今日ハンバーグ?いいね。」
「そうだよ。いい感じで焼けてる。」
 好物が夕飯だと知り、誠は上機嫌になった。考えていることが態度に出やすい誠を見て、貴子がほほ笑む。絵に描いたような幸せな家庭だ。
 このところ毎週土曜日には家族でどこかしらに出かけているが、今度はどこに行こうか?リビングのソファーで料理ができるのを待ちながら、誠はスマートフォンで候補地を検索する。何やら自宅付近で、子供でも楽しめそうな水族館が開館していることに気づいた。
「なんか近くに水族館できたみたいだね。今週行ってみる?」
「そうなの?どんな感じの水族館?」
 誠はスマートフォンの画面を料理中の貴子に差し出す。いいね、公輔も楽しめそうだし、と言って貴子は笑顔になる。家族で楽しく過ごす休日のイメージが彼女の脳内で再生される。じゃあ今週は水族館で決まりだな、と誠は言って、再びリビングのソファーに腰かけた。「毎週どこかに連れてってくれて、ありがとう」と感謝の言葉を貴子が述べると、誠は満足げな表情を浮かべる。
 これが俺のやり方なんだよ、と誠はつぶやく。貴子が「何か言った?」と不思議そうな顔をしていった。公輔は誠に遊んでもらいたいのか、最近買ってもらったおもちゃのブルドーザーをもって、誠の足元にしがみついてきた。

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