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母の小さくて、もろい背中

僅かなカーテンの隙間から差し込んできた陽の光を感じ、私は目覚めた。起きた瞬間、ついにこの日が来てしまったと思い気が重くなった。体は鉛が入っているかのように重い。もう何回こんな憂鬱な朝を迎えたことだろう。寝室からは、1階の台所で母親が朝食の支度をする音が聞こえる。もう何もかもやめにしたい気持ちを押し殺しながら、一度伸びをして2階の寝室から1階のリビングに向かった。

思った通り、私の母親は台所に立ち、家事をしていた。母親は私に気付くと
「おはよう」
とこともなげに言った。私は不機嫌さを隠すことなくおはようと答え、憮然として食卓の椅子に腰掛ける。食卓上の母親の入れたコーヒーはいつも通り香気を放っている。テレビは有名人の不倫を取り上げており、コメンテーターは好き勝手に不倫をした芸能人を批判をしている。朝の日差しが眩しかった。

私は某国立大学の大学院に通う学生で、生物学を専攻している。大学院で学んだ専門分野を生かし、製薬会社などの研究職を目指していたが、どの製薬会社も私の履歴書には興味を示さず、面接に進むことすらままならなかった。私は研究職につくことを諦め、8月を過ぎても新卒の募集をしているIT関連の会社や営業職などに応募した。その中で2社ほど最終面接まで進んだものの、2社とも不採用の連絡を受けた。私は出口の見えない暗いトンネルを進み続けているような感覚になり、ひどく参っていた。そうこうしているうちに10月を迎えると、大学院の同期はそれぞれの入社式に出席した。上手くやっていけるかの不安を語る一方、その顔はどこか希望と自信に満ち溢れているように見えた。将来を約束された同期たちと対照的に、私の将来は確約されず、私の心は荒んでいく一方であった。11月も中旬に差し掛かった今日、私は某自動車部品メーカー大手の最終面接の日を迎えた。

母親の作ってくれた朝食を平らげると、リクルートスーツに着替えるため、食卓の席を立った。すると、母親はなぜか嬉しそうな顔をしながら私の名を呼んだ。何事かよくわからぬまま台所に行くと、母親は台所の床を指差している。
「蜘蛛」
と母親が微笑みながら言った。
「朝の蜘蛛は縁起がいいんだよ。」
私は小さく笑い、出典不明の言い伝えにすがる母親を不憫に思うと同時に、そのようにさせる自分自身が心底不甲斐ないと思った。

蜘蛛に別れを告げ、私は2階の自室に行き、リクルートスーツに着替えた。ジャケットで中のワイシャツは見えないため、アイロンはしなくていいと母親に何度も言ったが、母親は意外と面接官は見てるんだよと言ってアイロンがけをやめようとしなかった。今日も母親がアイロンがけしたワイシャツを着ている。

また不採用になったらどうしよう。そんな憂鬱感を胸に、私は玄関に向かった。不安で暗くなった心とは対照的に、昨日磨いた玄関の革靴は綺麗な光沢を放っている。その革靴に足を通し、私が玄関を出ようとすると母親が
「いってらっしゃい。」
と言ったのが聞こえた。

面接会場は自宅から2時間近くかかる場所で、しかも会場は最寄りの駅から遠い場所にあることから、最寄駅からはタクシーで来るように人事の方から指示があった。遅刻は絶対に避けようと思い、会場最寄駅に1時間前に着くようにし、駅前のカフェで時間を潰した。緊張のため、胃がコーヒーを受け付けない。私は結局一口だけコーヒーを飲んでカフェを後にし、タクシーを拾い、面接会場に向かった。

面接の内容は緊張で正直よく覚えていない。覚えているのは、終始面接官の営業本部長が怪訝そうな顔をしていたことだ。私は必死だった。面接官の求める答えは何か、瞬時に自分なりに考えて面接官に伝えた。しかし、私が発するどんな言葉も面接官には全く響くことはなかった。最後まで掛け違えたボタンは修復されることはなく、面談は終わりを迎えた。また不採用か。私は内心こう思った。失意の中、面接室を後にした。

面接後、人事の方から帰りは駅までタクシーを呼んだから乗っていってくださいと指示があった。私は悪あがきだとわかりつつも、
「承知しました」
と出来る限りハキハキした口調で答えた。心なしか人事の方が面接前より対応が冷たくなっている気がした。

タクシーを乗るまで人事の方が私を見送ってくださった。タクシーの中から、私は人事の方に会釈をした。その姿がが見えなくなると、とてつもない疲労感で私はうなだれた。その様子を見たタクシーの運転手が
「今日は面接だったのかい?」
と話しかけてきた。
「そうです。今日は最終面接だったんです。」
私は努めて明るく答えた。
「そうか、最終面接だったんだ。どうだった?」
「いやぁ、正直あまり自信ないですね。」
「そうか。なかなか難しいよな。」
車内にどんよりとした空気が流れる。しばらくの沈黙の後、
「ちっとも景気良くなんーねーよなー。」
と運転手は能天気な声で呟いた。そして
「世の中は景気が上向いてきたっていうけど俺は全くそう思わないね。政治家は何やってるんだよ。」
と車内の空気を一掃するように再び呟いた。

タクシーが駅に着くと、運転手は
「早く決まるといいな」
と私に声をかけてくれた。優しい声をかけられて嬉しかった反面、暗闇から脱却する術は私の中で見出せないままだった。タクシーを降りると、冬の少し冷たい風が吹き、街路樹の枝を揺らした。

家に帰宅し、小さな声で
「ただいま」
というと台所にいた母親がこちらを向き
「お帰り」
と返した。母親の心配そうな顔でこちらを見ているのを私は感じていた。しかし、私は何も話したくない気分だったので、そのまま2階の自室に向かい、すぐさま部屋着に着替えベッドに横たわった。何度も面接で落とされるのは、流石に精神的に堪えるものがある。部屋の天井を見つめていると、自然と涙が溢れた。もうこの際、気の済むまで泣いてしまおうと思った。

一頻り泣きはらすと、このままふさぎ込んではいけないと思い、私は自室を出て階段を下り、1階のリビングに行った。すると、母親はリビングの奥にある畳の部屋で、私のワイシャツにアイロンをかけていた。何度この光景を見ただろう。息子の成功を信じてアイロンをかけるその背中は小さくて心許なく、私は自分が情けなくなった。私はもうその光景が耐えられなくなったため、母親の元に行き、
「母さん、俺がアイロンやるからいいよ。」
と言って半ば強引にアイロンを奪った。
「そう?できるの?」
「当たり前だろ」
震える声で答えた。すると母親は台所に戻り、夕飯の支度の続きを行う。申し訳なさ、情けなさで私はまた涙が溢れた。ワイシャツに涙がこぼれ落ち、涙が繊維に染み込んだところだけ変色した。そこにアイロンをあてると、涙は熱でジュッと音を立ててすぐに蒸発し、空気の一部になった。あと何回、私はアイロンをかけることになるのだろう。どうすればこの状況を打開できるのだろう。その答えはいくら考えても私の頭の中に浮かんでこなかった。

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